「自部屋の机上」の更新がしばらくできずにいたが、筆者の母が先日亡くなった。1か月ほどの入院生活を経て、あちらの世界へと旅立ってしまったのだった。
当ブログでも取り上げたことがあるが、筆者の両親も人間椅子のファンである。二世代でファンをやっていたため、母と人間椅子の思い出はいくつもある。
今はまだ考察や情報収集する記事を書く元気が戻らないため、あまり普段は書かないパーソナルな内容の記事を書こうと思う。
今回は母を偲んで、亡き母と人間椅子の思い出について書き残すこととした。
母と人間椅子について
母と人間椅子の思い出、エピソードは結構昔にさかのぼる。母は人間椅子がイカ天に出演したのを観て、それ以来のファンだった。
母ももともと音楽が好きだったが、入口はクラシックであまりハードロック・ヘヴィメタルに詳しい訳ではなかった。
世代的にDeep PurpleやQueenなどを通ってはいるが、どちらかと言うとクラシック要素の強いものや、Journeyなどポップな要素の強いものを好んでいたようである。
※Deep Purpleの『Machine Head』(1972)は高校時代の愛聴盤だったという。
母以上に音楽に詳しかった父と結婚し、二人でイカ天を観ていた時に人間椅子と出会ったようだ。
世間的な評価より、番組審査員の反応に同調し、両親ともに「陰獣」の圧倒的な世界観・演奏技術に魅了されたのだと言う。
人間椅子がイカ天出演、私はまだ0歳か1歳くらいなので、子育てが忙しかった時期だったはずである。
当時の音楽の流行を追いかける余裕がなかったと話してはいたが、人間椅子はよほどインパクトがあったのだろう。
子育てもあるし、ライブに行くには至らなかったが、4th『羅生門』までのアルバムは揃えていた。
『踊る一寸法師』以降は、人間椅子が低迷したことで情報も少なくなり、抜け落ちていたアルバムも多かったが、2000年の『怪人二十面相』で久しぶりに人間椅子の新作を聴くこととなる。
母はこのアルバムを大いに気に入り、家や車でよく流れることになった。そのため筆者が人間椅子にのめり込むことになり、筆者の人間椅子好きは母の影響が大きいと言うことである。
筆者が中1になる時に、どうしてもライブに行ってみたくなり、2001年の『見知らぬ世界』発売記念のツアー(名古屋公演)に家族3人で初めて参加したのだった。
それ以降、タイミングが合う時には家族で人間椅子のライブを観た。2008年に筆者が大学進学で上京すると、それ以降は父と二人でライブを観に行っていたようだった。
時々、機会があれば、筆者が帰省して3人でライブに行くこともあった。逆に両親が東京に来て、ライブを観ることもあった。
印象深いのは、25周年の渋谷公会堂(2015年)、そして30周年の中野サンプラザ(2019年)では、3人で揃って人間椅子の周年をお祝いすることができたのだった。
最近は3人で観る機会も減っていたが、2024年の秋のツアー『バンド生活三十五年 怪奇と幻想』は久しぶりに3人で観ることができた(チケットを両親と別に買ったので、観る場所は離れていたが)。
しかしそれが母と人間椅子のライブに行く最後になってしまったのだった。
母と人間椅子のエピソードから生まれた人間椅子に関する記事とは?
母は人間椅子の音楽を聴くのが好きだったし、そしてライブに行くのをとても楽しみにしていた。一方でなぜ母が人間椅子を好きなのか、というのはずっと疑問でもあった。
既に書いた通り、母の音楽の趣味はクラシックやロックの中でもAORなどの洗練されたサウンドだったし、なぜ人間椅子だけ突然好きになったのか、と言う謎があった。
特に文学少女だったという訳でもないし、Black Sabbathもほとんど聴いたことがない人だった。
人間椅子のファンになる人には、必ずしも文学オタクやハードロック好きである必要はない、というのは、筆者にとって母がその最たる例だったのだった。
ここから「なぜハードロックを聴かない人が人間椅子にハマるのか?」と言う疑問について書いた記事が生まれた。
※なぜハードロックを聴かない人が人間椅子にハマるのか? – キーワードは”独自の進化”と”中毒性”
どうやら人間椅子は、70年代~80年代を中心とする海外のハードロックに影響は受けつつも、音楽的に独自の要素が大きい、と言うことが明らかになってきた。
とりわけ彼らの持つ独特のグルーヴ、日本の土着的なおどろおどろしさのようなものが、唯一無二のサウンドや迫力を作り出しているのだろうと思う。
それはハードロック的な様式美や音楽理論、また作品の文学的な背景など一切知らずとも、ただそのサウンドに身を任せるだけで、快感であるという音楽なのだ。
そしてその快感こそ、人間椅子が独自に築き上げた”ヘヴィ”さであり、これは海外のバンドも真似できない雰囲気・グルーヴなのだと思う。
それゆえに近年は海外からの注目も集め、「無情のスキャット」がバズる結果にもなったのだろう。人間椅子独自の”ヘヴィ”さと言う点から、もう1本記事を書くに至った。
※ハードロックバンド人間椅子の”ヘヴィ”さはどこから来るのか? – 海外ヘヴィメタルとは異なる重さの魅力
母と観に行った印象的な人間椅子のライブ・イベントの思い出
最後に母と人間椅子にまつわる思い出を3つ取り上げて書き残しておこうと思う。一緒に観に行ったライブより、特別なイベントやシチュエーションが記憶に残っている。
和嶋氏ラジオ出演の出待ち(2003年)
2003年リリースのアルバム『修羅囃子』の時は、和嶋氏が全国でプロモーション活動をしていた。その流れで、筆者の地元である岐阜県でもラジオ出演(おそらく生出演)があることが明らかになった。
しかもちょうど平日、中学校が終わって帰ってきた頃にラジオ出演があると言う。その当時の筆者は今以上に引っ込み思案だったので、”出待ち”をするなどという発想はなかった。
しかし母はせっかくの機会なのだから、と車に乗せてくれて、岐阜駅近辺の公開スタジオへと送り出してくれた。その時、母は同行はせずに、息子が和嶋氏と会ってくるのを車で待っていてくれた。
当時の人間椅子の知名度からしても、岐阜でラジオ出演しても、スタジオの外で出待ちをしているのは自分くらいだった。否が応でも緊張感が高まるが、出演後の和嶋氏と会うことができた。
学生服の少年がおどおどファンであることを伝えると、和嶋氏はにこやかに話しかけてくれた。
今でも忘れられない思い出であり、勇気をもって行ってきなさい、と送り出してくれた母に感謝である。
※【2002年~2003年】人間椅子日記その2(押絵と旅する男~修羅囃子)
『此岸礼讃』リリースツアー(2011年)
母と二人で人間椅子のライブに行ったことも何度かある。特に印象に残っているのは、2011年の『此岸礼讃』のリリースツアーである。
この時は、筆者が地元に帰るのではなく、母が何かの用事とともに東京に来ていた時に一緒に観たのだった。
当時の東京のライブと言えば、渋谷のO-WESTで2日間というもの。2日間でセットリストをガラリと変えるので、どちらに行くか迷ったものだった。
母と行ったのは初日の「此岸の日」の方で、選曲的には新譜の楽曲が割と推し曲中心で、分かりやすいものだった。
一方でライブの定番曲に関しては、初日の方がややマニアックだった。本編最後は「針の山」ではなく「幸福のねじ」だったりと、若干のレア感のあるライブだった。
とりわけ印象に残っていたのは、ダブルアンコールであり、サウンドチェックでワウペダルを弾いているのが聞こえた。
あまりギターには詳しくない母が、その時直感的に「陰獣だ!」と思ったそうである。母の予想通り、ラストに披露されたのが「陰獣」だったのだ。
こういう時の母の直感は鋭いのであり、最後に披露された「陰獣」を観て、それはそれは母が嬉しそうだったのが忘れられない。
※【2010年~2011年】人間椅子日記その6(疾風怒濤~人間椅子ライブ!ライブ!!~此岸礼讃)
「なまはげ」のMV撮影
最も印象深いと言っても良い出来事は、母と一緒に「なまはげ」のMV撮影に参加したことである。当時を知る人は懐かしい話だと思うが、「なまはげ」のMVは実際のライブ映像ではない。
アルバム『無頼豊饒』リリース前に、ファンクラブ会員(+同伴者)が集まって、当て振り演奏が行われた疑似ライブなのだ。
当時は筆者のみファンクラブ会員であり、母は同伴者として誘って参加したのだった。整理番号順の入場だったが、10番台のかなり前の方の番号だった。
入場してみると、最前列があと1人分空いていると言う状態だった。周りも遠慮しているようだったが、筆者が「こんな機会はないからお母さんそこに入りなよ」と言って、母に最前列に行ってもらった。
周りの人もそんな母と息子のやり取りを聴いて、母を快く最前列に入れてくれたように思えた。
ほとんどがバンドTシャツを着た人が多い中、ピンクを基調とした服装の母はかなり目立っていた。きっと人間椅子メンバーから見ても目立っていたに違いない。
実際のMVの中にも、はっきりと母が写っている場面がある。大好きだった人間椅子の歴史の中に、母が生きた証が残ったことは、今となって改めて嬉しいことである。
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