【爆風スランプ】なぜ「大きな玉ねぎの下で」はヒット曲になったのか? – 「夕焼け物語」との対比から

スポンサーリンク

2024年にデビュー40周年で再集結した爆風スランプには、青春を思い起こさせる名曲が多数存在する。

その中でも世間的に非常に人気の高い楽曲が「大きな玉ねぎの下で」である。2025年2月にはこの曲をもとにして作られた映画『大きな玉ねぎの下で』が公開予定であり、長く愛されている楽曲だ。

一方で、シングル化されることはなかったが、ファンの間では同じくらい愛されている青春をテーマにした楽曲が爆風スランプにはある。たとえば非常に人気があるのが「夕焼け物語」である。

筆者の中では、同じくらい名曲であると思っているし、楽曲自体のクオリティは同様に高いように思える。

しかし、どちらもアルバムの中の1曲の立ち位置から、シングルカットされヒットしたのは前者であり、後者はファンの間で愛される隠れた曲となった。

なぜ世間的には「夕焼け物語」ではなく、「大きな玉ねぎの下で」がヒットするのか、この事例を考えてみると、歌謡曲のヒットの要因の一端が分かるような気がする

今回の記事では「大きな玉ねぎの下で」がヒットしたのはなぜだったのか、同じく青春をテーマにした名曲「夕焼け物語」との対比で考えてみようと思う。

なおどちらの曲が優れているか、と言った比較を目的にしたものではない。どちらも素晴らしい楽曲と言う前提で、タイプの違いを明らかにしたい、という目的をご理解いただきたい。

スポンサーリンク

「夕焼け物語」と「大きな玉ねぎの下で」の共通点と違い

まずは「夕焼け物語」と「大きな玉ねぎの下で」という2曲について紹介しながら、共通点・違いについて語ってみたい。

とりわけ違いについては、楽曲のタイプの違いを掘り下げることで、なぜ「大きな玉ねぎの下で」が多くの人に愛される曲になったか、のヒントになるのではないか、と思う。

共通点

まずは共通点を述べつつも、それぞれ楽曲の紹介も行っていきたい。以下が楽曲の概要(作詞・作曲、収録のオリジナルアルバム)である。

「夕焼け物語」

  • 作詞:サンプラザ中野、作曲:パッパラー河合、編曲:爆風スランプ、新田一郎
  • 収録アルバム:『Jungle』(1987年)

「大きな玉ねぎの下で」

  • 作詞:サンプラザ中野、作曲:嶋田陽一、編曲:久米大作
  • 収録アルバム:『しあわせ』(1985年)

ともに青春の甘酸っぱい物語がベースになっている点は共通している。

「夕焼け物語」は学生時代をともにした”君”への淡い思い出を歌ったもの、そして2年ぶりのクラス会で再会する(かもしれない)という過去を振り返る設定の歌詞である。

想い出に彩られた美しい”君”と、2年ぶりに出会う現在の”君”への思いが交錯する、とても美しい楽曲である。

一方の「大きな玉ねぎの下で」はペンフレンドである君と僕が武道館で初めて会うはずだったが、君は現れなかったという物語を歌詞にしている。

もともとは爆風スランプの1985年の初の武道館公演を前に、客席を埋めることが無理だと思った中野氏が、席が埋まっていないのは来なかった人がいるから、とう言い訳で作り始めた歌詞だったと言う。

しかし作っているうちに自分が作っているとも思えないほど良い歌詞になってしまったそうだ。

”ペンフレンド”という響きが淡い青春を思わせる。”君”に会いたくてたまらない”僕”、ようやく武道館で会えるという喜びと、会えなかったという悲しみがコンサートの情景の中で描かれていく。

まるでその物語の中に、コンサートの観客の中に自分がいるかのような感覚になる楽曲である。

ともにバラード調のメロディである点も似ており、前者はややファンクのリズムがあり、後者はより王道のバラードアレンジが施されている。

さらには両者はもともとアルバムの中の1曲であり、アルバムに先行するシングルカットになっている楽曲ではなかった点も共通している。

違い

両者の違いであるが、まず楽曲がどれだけ広まったか、と言う点において結果が分かれた。

「夕焼け物語」は1987年のアルバム『Jungle』に収録されたが、シングルカットされることはなかった。

1997年のベスト盤『決定版!爆風スランプ大全集2 〜The Very Best Of パッパラー河合〜』に「夕焼け物語(和佐田の巻)」で収録されている。

一方の「大きな玉ねぎの下で」は、1985年のアルバム『しあわせ』に収録された後、1989年に「大きな玉ねぎの下で 〜はるかなる想い」としてリメイク・シングルカットされている。

こちらはオリコンチャート週間8位を記録、多くのミュージシャンにもカバーされ、東京メトロ東西線の九段下駅の発車メロディにも使用されている。

もちろんこうした楽曲の広がり、と言う結果が楽曲のすべてではない。しかしなぜこうした違いが生まれるのか、不思議なところである。

両者の楽曲としての違いを述べながら、少しずつ探っていきたい。

まず両者の歌詞の描き方に違いが見て取れる。「夕焼け物語」は絵画・写真のような描き方、「大きな玉ねぎの下で」は小説・映画のような描き方をしていると筆者は感じている。

「夕焼け物語」では、思い出の中の”君”との場面が、アルバムをめくるように描かれる。桜の木の下で、体育祭で、人のいないグラウンドでの”君”が写真のように頭に浮かんでくる歌詞だ。

そこにはストーリーは明示されておらず、クラス会に向かう主人公が移動している最中の頭の中を覗いているような歌詞であり、動画と言うより写真・絵画のイメージが歌詞から浮かんでくる。

一方の「大きな玉ねぎの下で」は、設定やストーリーが明確で、まるで映画の中に入り込んだような動きのある歌詞になっているのが対照的である。

文通を重ねて武道館のチケットを送るまでは緩やかに物語が進み、1番の終わりで”僕”は武道館にたどり着く。そして2番ではコンサートが始まるも、”君”がいない現実がやって来る。

そして最後のサビの繰り返しでは、まるでドラマを見ているかのように刻々と物語が進んでいく。

席を立ち、アンコールの拍手の中で会場を飛び出し、終演後も駅へと向かう人波の中、武道館を見つめる主人公の姿…それはまるでドラマ・映画を見ているような躍動感がある。

どちらの楽曲も場面が浮かんでくる歌詞にはなっているが、前者が写真のように静的なもの、後者が映画のような動的なものとして歌詞が作られているところが大きな違いと言える。

その結果とも言えるが、「夕焼け物語」はストーリー性に自由度がありつつ、浮かんでくるのは高校生から大学生くらいの若者という具体的なイメージである。

そのため「夕焼け物語」の中に出てくる2人はどんな関係で、何が起きて、これからどうなっていくのかは、聴き手の想像に委ねられる部分が大きい。

一方で「大きな玉ねぎの下で」は年齢などの属性情報はイメージしにくいが、ストーリーは物凄く明確に決まっている。

そのため高校生ぐらいの物語でも、もう少し大人になった若者の物語としても解釈できるし、あまり想像を働かせなくとも、歌の物語に”感情移入”しやすいと言えるだろう。

歌詞以外の部分に広げると、音楽的にも違いがあると言える。

「夕焼け物語」は作り方としてシンガーソングライター的なものを感じる。それは歌詞とメロディ、サウンドとが一体となって作られている、という感じである。

「夕焼け物語」の切ないイメージは、サウンドやメロディ全体が醸し出すものであり、歌詞やメロディによる”歌”だけで切なさが作られておらず、サウンドと切り離すものではない。

逆に「大きな玉ねぎの下で」は、歌詞・メロディ・編曲ともに分業して作られているところからも、もう少し個々の役割が明確になっている。

「大きな玉ねぎの下で」は歌が単体として成立するところが、「夕焼け物語」と大きく違うところなのだ。

メロディや編曲部分は、クラシックのような壮大な感じのメロディとアレンジになっていて、歌をより盛り上げるために存在すると言っても良いかもしれない。

そしてサビが繰り返される展開に、映画のシーンのように展開していく歌詞が乗っかることで、メロディと歌詞が有機的に結びつくことになっている、と言う仕掛けもある。

歌詞やメロディ・サウンドをトータルで考えると、「夕焼け物語」は聴き手がサウンドや歌詞からより主体的に想像力を働かせて、イメージを膨らませることで楽しめる楽曲だと言える。

一方で「大きな玉ねぎの下で」は、映画のような物語に感情移入しやすく、さらに歌が単体として存在しうるので、歌って楽しみやすい楽曲となっている点が特徴である。

やはり前者は作曲家的な作り方、前者はシンガーソングライター的な作り方、後者は作曲家的な作り方によって作られた、とも言えるだろう。

スポンサーリンク

なぜ「大きな玉ねぎの下で」がヒットしたのか? – 歌の物語への感情移入について

ここまで「夕焼け物語」「大きな玉ねぎの下で」の比較を行ってきた訳だが、ではなぜ「大きな玉ねぎの下で」がヒットすることになったのか。

楽曲がヒットする、と言うことはバンドそのもののファンより広い層にまで楽曲が伝わっていく、ということを意味する。

言うなれば、もう少しライトなファン層(爆風スランプにそこまで詳しくない+音楽的な意味でもライトな層)にまで楽曲が届くかどうか、が重要なポイントとなる。

日本人の多くは、音楽より歌を聴いている、という話を以前このブログで書いたことがある。いかに歌って気持ち良いか、そして歌の物語に感情移入できるか、が重要な要素なのだ。

一方で音楽的に玄人的な聴き方になると、歌だけでなくサウンドやメロディの作り、展開・アレンジなど楽曲全体を構成する要素や、全体のクオリティなどを聴くようになる。

この考え方に則れば、「夕焼け物語」はより玄人的な聴き方にはまる曲、「大きな玉ねぎの下で」が大衆的な聴き方にはまりやすい曲だったということである。

「大きな玉ねぎの下で」が、歌の物語に感情移入しやすく、それをカラオケで歌うなどして歌の世界に入り込みやすいことが、一般受けしやすかったのだろう。

一方で「夕焼け物語」はサウンドやアレンジを含めた総体としてのクオリティが高く、また歌の世界観も聴き手の想像力に委ねられる点で、玄人的な聴き込みをより必要とするのかもしれない。

音や楽曲の雰囲気の方に関心がもともと強い人もいるかもしれないが、相対的に”歌”から曲に入る人が多いことを考えれば、歌の印象が強い「大きな玉ねぎの下で」が受け入れられやすいのだろう。

別の事例として、スターダストレビューにおける「木蘭の涙」が同じく歌の物語に感情移入しやすい点から代表曲となっている点を記事にしたことがある。

彼らにはメロディが抜群に良い「今夜だけきっと」などもあるが、歌が広く愛された結果、「木蘭の涙」は多数のカバーが存在するのではないか、と言うことを考察している。

【スターダストレビュー】なぜ「木蘭の涙」がやっぱりバンド1番の代表曲なのか?

後から分析すればこのようになるが、歌に感情移入できるラインと言うのはとても難しい。物語を作り込み過ぎも入りにくいし、余白が多過ぎるとインパクトに欠けてしまうのである。

その絶妙なラインで心を掴んだのが「大きな玉ねぎの下で」だったのだろう。思わず吸い込まれるようなストーリー性がありつつ、聴き手の思い出と照らして聴ける自由度もあるのだ。

一方で「夕焼け物語」はもう少し余白が多く、サウンドの美しさとともに聴き手にもっと委ねられる楽曲で、より聴き込んでいるファンにこそ愛される楽曲となったのだろう。

改めてどちらが良い悪いと言う話では全くない。しかしより素早く人の心を掴んだ(その点においては優れている)のが「大きな玉ねぎの下で」であったと言う話である。

それぞれの楽曲にも”持前”のようなものがあり、ファンに愛されやすい・広くヒットして知られやすい、という性格があるのが実に面白いものだと、改めて思う。

【ライブレポート】2024年11月17日(日)「爆風スランプ〜IKIGAI〜デビュー40周年日中友好LIVE ”あなたのIKIGAIナンデスカ?”」東京都 LINE CUBE SHIBUYA

コメント

タイトルとURLをコピーしました