今日は4月8日、花まつり、お釈迦さまの誕生日と言われている。所説あるが、旧暦の4月8日に生誕したという伝承にもとづいている。
稚児行列や仏像にお水かけ供養をするなど、世界中でお祝いの行事が行われるようだ。
そこで花まつりの日を記念して、人間椅子の中で仏教の考え方を学べる曲を選んでみた。
人間椅子のギター和嶋慎治氏は仏教学部出身
人間椅子の和嶋慎治氏は人間椅子の楽曲の歌詞の多くを手掛けている。
駒澤大学仏教学部の出身であり、歌詞には仏教の考え方が色濃く出ている。それはデビューした頃から一貫している。
たとえば「賽の河原」と言う曲では、死後の世界のことが歌われている。その後も仏教の世界観の歌詞を書き続けており、新旧の楽曲を見渡すと仏教の考え方が色濃く見える。
仏教を学べる曲
中でも、最近の人間椅子では、より仏教の世界観が前面に出ている。
以前書いた、最近の人間椅子の再ブレイクの要因にも、和嶋氏が内面的に吹っ切れたことを挙げている。
仏教の教えの何か大事なものをつかんだのではないか、と推察されるところだ。
と言うよりも、仏教を知ると、仏教があまりに多くの学問領域を含んだ教えだとわかる。
僕も少し仏教をかじったことがあるので、今日はいろいろな角度から仏教を学べる人間椅子の曲を集めてみた。
黄泉がえりの街
19枚目のアルバム『怪談 そして死とエロス』(2016年)収録。
この曲を最初に持ってきたのは、私たちが今置かれている状況を端的に歌詞にしているからだ。
冒頭の、
観音の功徳なき 今はただ末法
そして、
成仏はもうない
と歌っている通り、お釈迦さまの死後1500年以降の世界が末法であり、今は末法の時代だ。
末法の時代には自力では救われることはない時代と言われている。
まさに今の社会を見渡せば、仏教的な思想はあまり知られることがなくなってしまい、予見されている通りになっていると言えよう。
悉有仏性
18枚目のアルバム『無頼豊饒』(2014年)収録。
仏教での大事な教えに、「誰しもが仏となる種を持っている」というものがある。
この曲のタイトルがそのもので、「仏性」とは、仏になる心性・可能性のことを指し、悉く有る、つまり皆に備わっている、と言う意味である。
世界を探検しても 神や仏は見当たらない
このように、仏となり悟りを開くためには、自分の外に答えを求めても見つからないということを仏教は説いている。
自分の外に”神”の存在を見出すと、どの神が正しいのかという争いが起きるのだが、仏教ではそれぞれ自身の中にあることを説いていることが、特徴的な宗教である。
見知らぬ世界
10枚目のアルバム『見知らぬ世界』(2001年)収録。
一見すると仏教のことを言っていないようだが、過去のインタビュー等でも禅における境地を歌ったものと言う話があったように覚えている。
仏教における悟りの境地とは、「空」とも言われ、何の波風もたたない世界を言っているとされる。
僕たちは常に欲に左右され、荒波の中を生きているが、そういった気持ちの上下のない穏やかな世界が、目指すべき世界だと言われる。
仏教は人の心を説くものであり、人として生きながら、そういった境地を感じる瞬間はあると思う。
「見知らぬ世界」で歌われている「静かな世界」を目指したいものである。
芳一受難
再び『怪談 そして死とエロス』からの楽曲。
ここでは曲全体の歌詞より、「般若心経」の最初の部分がそのまま歌われている点に注目だ。
「般若心経」の解説はこちら ↓
「般若心経」は先ほど書いた「空」について述べていると言われている。
「空」はとても難しい考え方ではあるが、まず肉体的な縛りの中で生きている僕たちだからこそ苦しみが生まれると説いている。
黙っていても空腹になるし、病気になることも、すべて肉体があるゆえの苦しみだ。
こういった苦しみを煩悩と言ったりする。
そうであれば、肉体や形に縛られなければ、苦しみもない、ということだ。
この苦しみのない状態こそ、仏教でいう悟りの境地である。
難しくなってきたので、ここまで紹介した仏教の考え方をまとめると、以下のようになる。
- 仏教では仏になる心は、それぞれの中に存在するとしている。
- 私たちは肉体に縛られるがゆえに、悟りの境地に至れない。
- 悟りの境地とは、煩悩に心を左右されない、静かな世界である。
胎内巡り
7枚目のアルバム『頽廃芸術展』(1998年)収録。
「胎内巡り」は、仏教における修行の1つであるとされる。仏像の胎内などの狭く暗い場所をくぐるというものである。
暗闇の中で俗世から離れて仏縁に触れる意味合いがあるようだ。
そして暗闇を怖がるということも、輪廻転生を繰り返して、暗闇(地獄)が怖いという前世の記憶があるからなのではないか、とも思ったりする。
この曲では「四弘誓願」が最後に唱えられる。
これは菩薩が修行に入る前に立てる、4つの誓願とされている。煩悩を断ち、悟りを得ようとするための道を説いているとも言えるだろう。
なお宗派によっては4つではなく6つだったりもする。
異端者の悲しみ
20枚目のアルバム『異次元からの咆哮』(2017年)収録。
ここまで読んでくださった方は、この歌詞の意味がそれとなくお分かりではないだろうか。
僕は誰だ がんじがらめ 我が身体入れられて
とはまさに、仏になる可能性を持った仏性が、肉体と言う器に入れられて、身動きが取れなくなっている様子を歌っていると考えられる。
肉体があるが故に、常に煩悩にとらわれ苦しんでいるが、仏の心はこんなところにあるものなのだろうか?
かつていた世界は何処
と叫んでいるのである。
そして本来いるべき場所は、
ああ 君と僕の ああ 麗しい故郷
そう、それが仏教の説く浄土の世界である。
仏教において悟りを開いて救われた者が浄土に帰るとされているのだ。
そこに帰れず、六道輪廻を繰り返し回っている我々は異端者であり、悲しい存在なのだ、ということを歌っていると解釈している。
無情のスキャット
21枚目のアルバム『新青年』(2019年)収録。
この曲がなぜ売れたのか、ということも、実は仏教の最も大事な教えを説いているからではないか、と僕は考えている。
1番と2番では「天使」や「女神」といったものに救いを求めようとする人を歌っている。
僕の解釈だが、これはあくまで現世において自分を救ってくれ、という欲に起因するものだと考えている。そして何か自分の外にある、大きなものが救ってくれるという夢を持っているのだ。
しかし中間部で、
誰も彼も星の御許
とあり、「異端者の悲しみ」で歌われていたような、本来はどんな生き物も同じ故郷で生まれたのではないかと言うことに気付いている。
そして、
千の願い胸に膨らませ
とは、その生き物がすべて救われることを願う仏を思っているのではなかろうか。
続く3番では、仏に救いを求めるが、
侘しく 寂しく しくじりばかりのこの私に
と、自分の存在を自覚しているのが、1番・2番と大きく違う。
仏教では自分が愚かな存在であると自覚するところから始まり、初めて救われるのである。それは末法の時代だからということでもあるが。
そして最後に、
私の命に光を
すべての命に光を
とあるが、仏教では自分も救われて、すべての生きとし生けるものが救われることが最善であるとされている。
つまり自分だけが救われればいいという心ではなく、一切の生きるものが救われることを願う教えなのだ。
これまでいろいろな仏教の世界観を歌ってきた人間椅子だが、この曲で仏教の本当の核心を1曲で歌い切ってしまったのだから、それは全世界の人の心に届くものだと納得できる。
まとめ
人間椅子の歌詞には、仏教の教えがたくさん盛り込まれている。これらを知ると楽曲をより深く楽しめるのではないだろうか。
そして仏教はたくさんの教えがあり、難しいイメージもあるかもしれない。しかし言いたいことの本質は実はシンプルだったりする。
もし興味を持った方が、これを機に仏教を勉強されるのもいいタイミングかもしれない。
「仏教を学べる人間椅子の曲」
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