ハードロックバンド人間椅子はなぜ海外から注目されるのに、ここまで時間がかかったのか?そしてなぜ今注目されているのか

スポンサーリンク

日本のハードロックバンド、人間椅子が海外から注目を集めている。その起爆剤となったのが、2019年に公開された「無情のスキャット」の動画であった。

今や動画には海外からのコメント数が膨大になっており、”リアクション動画”と言われる楽曲を聴きながら実況する動画も海外で数多くアップされている状況だ。

そして2020年2月には初めての海外公演が実現するに至った。当ブログでも海外公演までの道のりを、以下の記事にまとめている。

しかし人間椅子のファンになった2000年当時、筆者は中学生ながら素朴に「人間椅子はなんで海外で売れないんだろう?」と、疑問に感じたものだった。

人間椅子の音楽性はほとんど変化していないのに、なぜ今このタイミングで海外で注目されることになったのだろうか?

この記事では、人間椅子の活動してきた時代を振り返りながら、なぜ人間椅子の音楽が海外に届くまでここまで時間がかかったのか明らかにしてみたい。

スポンサーリンク

”海外に向けたアピールをしていなかった”だけが原因なのか?

なぜ海外に人間椅子の音楽が届くのにここまで時間がかかったか?

まずは素朴に考えてみよう。当然、海外に人間椅子を知ってもらうところから始めなければならない。

そのためには、当然海外に向けてアピールする必要があるだろう。人間椅子がこれまで海外にアピールしてきたか、というと、活動のうち約20年~25年くらいは行っていない、というのが事実だ。

人間椅子がYouTubeに公開したMVに英語字幕をつけたり、英語ページを作ったりしたのは、この数年の出来事である。2014年の「宇宙からの色」にも、後から英語字幕が付け加えられた。

そしてYouTubeやSNSなど、比較的簡単に世界中に音楽や情報を広めるツールができたことも大きな要因だった。

過去のKing Crimsonのカバー映像は見たことがある人も多いのではないか。クオリティの高いカバーなどが話題となり、国内外での知名度アップにつながった。

ここまでをまとめると、人間椅子が海外に知られなかったのは、

  • そもそも海外へのアピールを行ってこなかった
  • 海外にアピールするためのツールがなかった

という2点が挙げられる。あまりにあっけない結論だが、この2つだけだ。

しかし、この記事ではもう一歩踏み込んで分析してみたい。

2点目の”ツール”は人間椅子サイドで作れるものではないが、1点目の”アピール”については、「なぜ行わなかったのか?」あるいは「なぜ行えなかったのか?」という疑問が生まれるだろう。

この疑問に対しては、人間椅子がなぜ海外にアピールを”しなかったか”について明らかにする必要があると筆者は考える。

ここから、人間椅子の活動方針国内外の音楽に関する状況に注目して明らかにしていきたい。90年代~00年代前半、00年代後半~10年代前半、10年代後半~現在の3つの時期に分けて振り返る。

スポンサーリンク

なぜ海外から注目されるのに時間がかかったのか?

まずは、海外から注目されていなかった時代について見ていこう。ここでは90年代~00年代前半、00年代後半~10年代前半の2つの時期に注目する。

国内での注目度が低い時期が続く(90年代~00年代後半)

人間椅子はテレビ番組「三宅裕司のいかすバンド天国」、通称”イカ天”に出演したことをきっかけにデビューしたことは、多くの人がご存知かと思う。

世の中的にも”バンドブーム”に沸く中、ベース・ボーカル鈴木氏のねずみ男の衣装などの奇抜さも手伝って、1990年にリリースされた1stアルバム『人間失格』は売り上げを伸ばした。

しかしバンドブームが去ると、売り上げはどんどんと下がり、1994年にメジャーでの契約も終了してしまう。

さて、90年代前半までの活動を通じて、人間椅子の活動の場はどこを想定していたのだろうか。

そもそも人間椅子は国内のテレビ番組出演をきっかけにデビューし、国内で起こったバンドブームの流れで活動することになった。

メンバーの意向はわからないが、事務所としては国内での活動しか当初は考えていなかっただろう。

ただし1993年の4thアルバム『羅生門』制作にあたっては、Black Sabbathのギタリスト、トニーアイオミのプロデュースを依頼したが、実現しなかったことはあった。

とは言え、本格的に海外進出を検討していたわけではなく、あくまで国内での売り上げの起爆剤としてトニーアイオミへの依頼を行ったと考えられる。

その後は、インディーズでの活動となったり、単発のメジャー契約など、バンドとしても順風満帆ではなかった時期が続く。

1999年の8thアルバム『二十世紀葬送曲』で、メジャー復帰となったものの、海外進出は実現可能性の低い話で、国内で活動を続けていくだけでも精一杯だったのではないだろうか。

それと同時に、人間椅子メンバーとしては、国内でしっかり評価されてから、海外にも挑戦したいと考えていたのではないか。

人間椅子はハードロックの良さを、日本国内にも広めたいという思いもあったことだろう。しかし、国内でハードロックバンドとして評価されることは難しい状況であったように思う。

そもそも日本の音楽のメインストリームには、ハードロックの土壌はほとんどないと思っている。人間椅子が位置づけられる場所、活動できる場所は国内にはなかった、と言っても良い。

60年代~70年代に海外でハードロックが隆盛した頃には、日本でもハードロックが流行っていた。しかしハードロック自体が下火になると、日本では海外以上に定着しなかった。

人間椅子が活動を始めた90年代以降の音楽を考えても、打ち込みを主体とした音楽やオルタナティブロックを主体としたバンドがメインストリームだった印象だ。

まずもってハードロック人口が少ない上に、対バンするような類似バンドも極端に少ないため、人間椅子は全くの孤軍奮闘で活動をただ続けるしかなかったのだ。

このような大変苦しい状況の中、15年ほどの活動が続いたと言えよう。

まとめると、国内での活動を主軸に置いていた人間椅子だったが、人間椅子が活躍できる場がない国内の音楽業界の状況もあって、活動が低迷する時期が続いていた、ということになる。

もともと海外で活動することは考えていなかったとも思われるが、このような苦境が続いたことで、ますます海外へのアピールなどという発想にはならなかったのではないか。

国内での評価に変化の兆し(00年代後半~10年代始め)

厳しい状況が続いた人間椅子だったが、2000年代の後半からじわじわとライブの動員数が増えていく、という現象が起きていた。

メンバーにもその要因が分からず、ライブの際にアンケート調査を実施したぐらいだった。真相はわからないが、筆者なりに思い当たる点を挙げてみよう。

最も大きな要因は、YouTubeが広まって、過去のライブやテレビ番組の映像が見られるようになったことだろう。

人間椅子は映像も少なく、CDを買うことでしか聴くことはできなかった。非公式ながら、過去の貴重な映像がアップされたことで、人間椅子の凄さを知った人は多いのではないか。

特に”イカ天”世代ではない、より若い世代が動画を見てファンになったという人が多かった。つまり、同窓会的なファンの増え方ではなく、新規のファンが増えることとなった。

では、なぜ若い世代に人間椅子の動画が届いたのか?その理由として、”オタク文化”のメインストリーム化があるのではないか、と思う。

アニメやゲームの分野を中心に、サブカルチャーと言われたオタクの文化が主流文化に取り込まれていくような現象があった。その結果、SNS等ではオタク的な話題を広く行うことも一般的になった。

音楽においても、サブカル的なバンドは関心を寄せられることになり、若い世代の中にも人間椅子に関心を寄せる人が出てきたのではなかろうか。

そして折しも2009年、人間椅子はデビュー20周年の記念の年だった。あまりに独特な人間椅子と言うバンドが20年も続いた偉業に対し、業界の界隈でも祝福の声が多数届くこととなった。

また音楽的には異なるジャンルでも、人間椅子をリスペクトする若手バンドも現れ、実はファンだったという人が業界内でもいることが明らかになっていった。

※元・毛皮のマリーズの越川和磨氏と和嶋氏の対談

和嶋×越川 対談 | 徳間ジャパン|Tokuma Japan Communications CO
人間椅子 和嶋慎治 × THE STARBEMS 越川和磨 対談TEXT:荒金良介 ■2人を繋ぐ赤

こうしたオタク文化にまつわる状況の変化もあって、改めて人間椅子の個性、そして歴史への注目が集まるようになった、という現象が起きていたように思う。

この時期の人間椅子は海外公演を考えていたのだろうか?2010年のライブアルバムの収録を行った『疾風怒濤』ツアーのMCでは、和嶋氏が海外公演をしてみたい、という話をしている。

YouTubeなどで世界的に人間椅子の音楽が広がる可能性が出てきたため、全くの夢物語ではなくなった。しかし、まだ現実的な見通しがある様子ではなく、希望として語っているようにも思えた。

メンバーとしては、まず国内でしっかりと活動を積み上げてから、海外に目を向けようという姿勢は変わっていない。この段階では、まだ海外へのアプローチはしなかった、ということだろう。

改めて国内の動きに戻ると、この時期にファンになった人も多いと思うが、人間椅子のどこを好きになった人が多いのだろうか?

HR/HMのファンからも一定数の流れ込みはあったが、音楽以外の部分でも楽しんでいる人も多い

メンバーの絵を描くという楽しみ方や、歌詞の世界観にどっぷりハマるなど、必ずしもハードロックから入るのとは違う楽しみ方をしている人も多いように思える。

サブカルがメインストリーム化したことで、人間椅子の独特な世界観芸術的な表現への注目度が高まった、と捉えられそうだ。

相変わらず日本でハードロックを聴く文化が広がった感覚はなく、人間椅子への入り口としては、”オタク”的な要素から入ったと言う人も多いのだと思う。

言い換えれば、人間椅子が単なるハードロックバンドにとどまらない、様々な魅力を持つバンドであることを示しているとも言えるだろう。

なぜ海外から今注目されているのか?

最後に、海外から注目されるようになった近年の動きを見ていこう。ここでは2010年代半ばから現在に至るまでの人間椅子を振り返る。

Ozzfest JAPAN 2013への出演・”日本発”メタルが世界に届く時代へ(10年代半ば~現在)

人間椅子はある出来事をきっかけに大きく飛躍することとなる。ご存知の通り、2013年に開催されたOzzfest JAPAN 2013への出演である。

当時の人間椅子の知名度からすれば大抜擢であり、多くの人に人間椅子の生の音が届く機会となった。この出来事は国内外の音楽ファンにインパクトをもたらしたと思われる。

まず国内では、人間椅子という名前が徐々に知名度を上げていたものの、音源まで手が伸びなかった層に一気に届いたことだ。あのライブの音を聴いて引き込まれた人の数は計り知れない。

そしてOzzfest JAPANは海外のバンドも多数出演するため、外国の人も多く参加していた。HR/HMに馴染んでいる人たちにも、人間椅子の音楽性の高さをアピールする場となった。

さらには敬愛するBlack Sabbathと同じステージに立ったという事実である。人間椅子がサバス的なサウンドをここまで受け継いで花開いたこと、そしてメンバー自身もその事実に感動したことだろう。

つまり、人間椅子が自身のアイデンティティを自覚する機会になったということだ。和嶋氏も”第2のデビュー”と語るほどであり、日本語でハードロックをやるという原点を思い返したのだ。

2013年の17thアルバム『萬燈籠』以降、人間椅子は自身で”人間椅子らしさ”を改めて見つめ直した作品をリリースするようになった。”ブランディング”をしっかり行うようになったということである。

またしても良いタイミングで、2014年はデビュー25周年であり、渋谷公会堂を満員にするという大躍進を果たすことができた。国内では人間椅子の売り上げは右肩上がりの状態になっていた。

そして2016年には初めて海外進出の話が持ち上がるロシアのモスクワで行われる『RAMF 2016』と呼ばれるイベントへの出演が決定したのだ。

しかしロシアでのセキュリティ問題により、このイベントは中止となってしまう。この時は繋がらなかったが、人間椅子サイドは海外公演への構えは十分にできたと言えるだろう。

そして2019年の5月に公開された「無情のスキャット」のMVは瞬く間に再生回数が伸び、海外からのコメントが大いに増えることとなる。

それ以前から海外からのコメントは増えており、MVに英語字幕を付けたり、タイトルを英語表記にしたりと、海外に向けてのアピールをしっかり行うようになっていた。

その後の海外公演までの道のりや、海外のリアクションなどは、以下の記事に詳しく書いているので、ご覧いただきたい。

では、なぜこのタイミングで海外へのアピールをするようになっていたのか?

1つには国内でしっかり評価を受けるようになったからであろう。大きなライブ会場でライブが行えるようになり、CDの売り上げがアルバムごとに伸びているなど、目に見えた変化があった。

2点目には人間椅子が自身のアイデンティティを再確認したことで、結果的に海外から注目され始めたのである。YouTubeやSNSなどに積極的に取り組むようになったことも、それを後押ししている。

そして人間椅子が積極的にアピールするようになったと同時に、海外の側からも人間椅子を受け入れる準備が整ったと思われる現象がある。

それは海外が日本の”オタク的な”文化を高く評価するようになったことだ。主にはアニメやゲーム、そしてアイドルなどが、海外から大きな注目を浴びるようになった流れがあった。

HR/HMの文脈では、BABYMETALの海外での爆発的な人気が大きなトピックであろう。

BABYMETALは本格的なメタルサウンドと、日本のアイドル文化の魅力を同時に楽しめるため、海外からも絶大な人気を得ることになったのだと思う。

ここで筆者が注目したいのは、”日本発”のメタルが海外に広がり、それが正当に評価されたと言う現象である。

かつての日本のメタルバンドは、一生懸命海外のバンドに”追いつこう”というスタンスだったように思う。日本独自の文化をそこに取り入れよう、という姿勢はほとんどなかったのではないか。

かつての日本では、ポピュラーミュージックの中に日本的な要素を入れることは”ダサい”ことであり、海外からすると、日本臭さは嘲笑の対象だった(と日本人が思っていた)。

日本人も自ら日本文化を取り入れる時には、あえてコミカルにしてしまう、という流れがあったように思う。

しかし時は流れ、アニメやアイドル文化を中心に、新しい”日本らしさ”が生まれたことで、それらは嘲笑の対象などではなく、”クールなもの”として評価されるようになったのだ。

この流れに、人間椅子も見事にマッチしたのではないか、と筆者は思う。人間椅子は日本的な内容の楽曲を日本語で歌い、和装で演奏するバンドであり、今海外からは”クール”だと評価されている。

しかし人間椅子はデビュー前から同じことを続けていただけで、何も変わっていない。コミカルに見せることもなく、ずっと大真面目に”日本発”のハードロックを鳴らし続けてきたのだ。

ただタイミングがずれていれば、海外からは”コミカル”に受け取られてしまったかもしれない。今だからこそ、人間椅子が海外から正当に評価されているのだと思う。

つまり、国内外の音楽にまつわる状況を見れば、人間椅子が今海外で評価されているのは必然的なことなのだ。別の言い方をすれば、ようやく時代が人間椅子に追いついたのだと言うことだろう。

まとめ

今回は人間椅子がなぜ海外から評価されるまで、ここまで時間がかかったのか、について考察してみた。

まとめると、以下のような理由になるのだろう。

  • 人間椅子自身が海外を目指すよりもまず、国内でしっかり活動しようとしていたが、国内で評価されるまでに時間がかかった。
  • YouTubeなど国内外に広く人間椅子の音楽や個性を知ってもらうツールができたことで、”オタク文化”のメインストリーム化も手伝って、国内で人気が高まり、ようやく海外に目が向いた。
  • 日本発”のHR/HMを受け入れる土壌が海外にできたことで、ようやく人間椅子の音楽が海外で評価されるようになった。

海外からの評価、という内容だけで、結果的に人間椅子の30年の歴史を振り返ることになった。改めて人間椅子がここまでブレることなく、活動が続いてきたことに頭が下がる。

筆者自身、2000年頃にファンになって、国内外で人間椅子がまったく正当に評価されないことに、もどかしい思いをずっと抱えてきた人間の1人であった。

それでも人間椅子がずっと音楽性を変えることなく、地道に続けてくれたからこそ、ずっとファンで居続けることができた。

ようやく人間椅子が受け入れられる土壌ができたことが、本当に喜ばしい。そして時代は変わろうとも、人間椅子はこれからも変わらないだろう。

やはりこれからの人間椅子にも目が離せない。

※人間椅子のデビュー前からの歴史、変化についてさらに詳しく知りたい方は、以下の記事も併せてお読みいただきたい。

据え置き型の音楽再生機器に迷っている人におすすめ!

Bose Wave SoundTouch music system IV

これ1台でインターネットサービス、自身で保存した音楽、CD、AM/FMラジオを聴くことができる。コンパクトながら深みがあり、迫力あるサウンドが魅力。

自宅のWi-FiネットワークやBluetooth®デバイスにも対応。スマートフォンアプリをリモコンとして使用することも可能。

コメント

タイトルとURLをコピーしました