イカ天出身バンド人間椅子の30年の歴史・再ブレイクを紐解く – 30年の歴史で変化したこと・変化しなかったこと

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日本のハードロックバンド、人間椅子は1989年にデビューして活動歴は30年を超える。ここに来てブレイクを果たし、初の映画「映画 人間椅子 バンド生活三十年」が今月25日より公開されている。

人間椅子は、テレビ番組で華々しくデビューするも、長い低迷期を経て、再びブレイクを果たしている。なぜここまで活動を長く継続することができ、今ブレイクしているのか?

その答えは、30年という人間椅子の長い歴史に隠されている。

今回の記事では、前半で人間椅子の今日までの歩みを振り返る。後半では、人間椅子の歴史において、変化したこと・変化しなかったことが何であるかを掘り下げる。

これまでの歩みや変化を見ることで、人間椅子の魅力と再ブレイクの要因が浮かび上がってくることを願って書いた。

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人間椅子の歴史

前半では、人間椅子のこれまでの歩みを振り返っておきたい。

なお人間椅子の現メンバー紹介については、以下の別サイトの記事で詳しくまとめられているので、今回は割愛する。

人間椅子(にんげんいす)メンバーの年齢、名前、意外な経歴とは…? カルチャ[Cal-cha]
2013年のOZZFEST出演を機にブレイクしたキャリア30年超のベテランハードロックバンド人間椅子。海外のロックファン...

長い歴史を振り返る上で、今回はドラマーの交代で区切りながら紹介する。

人間椅子結成以前(~1986年)

人間椅子の始まりをたどると、ギターの和嶋慎治とベースの鈴木研一の中学時代に遡る。青森県弘前市の別の中学に通っていた両氏は、ロック鑑賞会で出会ったそうだ。

同じ高校に通うようになった両氏は、高3時に同じバンドで活動するようになった(バンド名は「死ね死ね団」)。2人とも大学受験に失敗し、浪人中も文通を続け、ともに東京の大学に進学した。

第一期ドラムス:上舘徳芳(1987年~1992年)

大学時代にドラマーの上館徳芳氏と人間椅子を結成。

1988年には就職の内定も出ていた鈴木氏だったが、中古レコード屋でばったり和嶋氏と出くわした際に運命を感じ、内定を蹴ってバンドを継続することに決めた。

そして1989年にテレビ番組「三宅裕司のいかすバンド天国」に出演し、「陰獣」を披露。鈴木氏のねずみ男の格好が話題になったが、審査員の間では演奏技術や世界観が高く評価された。

同年、インディーズで通称0thと言われる『人間椅子』を発売。代表曲となる「陰獣」「人面瘡」「りんごの泪」などが収録されている。

1990年には1st『人間失格』でメルダックからメジャーデビュー。バンドブームの影響もあり、1stアルバムの売り上げは伸び、バンドスコアも発売されている。

1991年に2nd『桜の森の満開の下』、1992年には3rd『黄金の夜明け』を発売。3rdでは、よりプログレッシブロック要素も取り入れて、大作が増えるなど音楽性も広がった。

その一方で”イカ天”のバンドブームの終焉とともに、徐々にライブ動員は減少した。70年代ハードロックを基調とした音楽性は、日本においてはメジャーなジャンルではなかったことも大きかろう。

『黄金の夜明け』発売後にドラマーの上舘氏が脱退することとなる。

サポートドラムス:後藤マスヒロ(1993年~1995年)

いよいよバンドの低迷は目に見えていた。

起死回生をはかり、敬愛するBlack Sabbathのギター、トニー・アイオミ氏にアルバムのプロデュースを依頼するものの、実現することはなかった。

1993年、4th『羅生門』はサポートドラマーとして後藤マスヒロ氏を迎えて制作された。この時期の人間椅子は2人であり、ジャケット写真にも2人のみで撮影されている。

よりわかりやすい作風の楽曲も収録され、タイアップもついたものの、レコード会社との契約は終了となった。

第二期ドラムス:土屋巌(1995年~1996年)

1995年にドラマーとして土屋巌氏が加入。土屋氏は人間椅子メンバーと知り合いであり、正式なメンバーとして加入することとなった。

この時期に地元の青森県ではテレビ番組「人間椅子倶楽部」が始まり、休止期間を挟みつつ1999年まで放送された。楽曲カバーやゆるいトークが、一部マニアに人気を博した。

95年には5th『踊る一寸法師』がインディーズレーベルのフライハイトよりリリースされる。インディーズとなり、これまでより楽曲の世界観や曲調のバリエーションが豊かになった。

1996年には漫画「無限の住人」のイメージアルバムとして、6th『無限の住人』がポニーキャニオンから発売される。コンセプトがありながら、人間椅子の世界観ともマッチした力作となった。

しかし『無限の住人』発売ツアー前に土屋巌氏が脱退することとなる。

第三期ドラムス:後藤マスヒロ(1996年~2003年)

4th『羅生門』でサポートドラマーを務めた後藤マスヒロ氏が正式メンバーとして加入した。

この時期は和嶋氏に身内の不幸があり、和嶋氏は地元青森に滞在していた。1997年にはアルバム発売がなく、ファンからはバンドの存続も心配される時期であった。

しかし翌年1998年にトライクルより7th『頽廃芸術展』が発売された。

和嶋氏が青森にいることもあり、アルバムは青森県のライブハウスMag-Net亀ハウスなどで自主制作されることになった。メンバーと「人間椅子倶楽部」の番組スタッフが中心となった。

1998年7月に再びメルダックと契約し、メジャーに復帰している。1999年には8th『二十世紀葬送曲』を発売し、「幽霊列車」ではMVが制作された。

7月には十周年記念公演が東名阪にて行われている。8月にはオフィシャルサイトが開設された。

2000年には、人間椅子の原点である江戸川乱歩の小説をコンセプトとした9th『怪人二十面相』が発売された。MVがVHS『怪人二十面相』にて発売されている。

続く2001年には10th『見知らぬ世界』が発売された。私生活では和嶋氏が離婚し(後に著書で発覚)、生活が変化したことが曲調の変化にも表れており、当時は賛否両論あった。

9月にはビデオ『見知らぬ世界』が発売され、MVと2000年10月29日に青森県田舎館村役場文化会館で行われたライブ映像が一部収録されている。

2002年には2枚目となるベストアルバム『押絵と旅する男〜人間椅子傑作選 第2集〜』が発売された。年代順に収録され、「どだればち」の標準語訳が初めて掲載された。

2003年に11th『修羅囃子』がリリースされ、アーティスト写真はメンバー全員がメイクをし、チンドン屋をイメージしたものだった。発売ツアーライブ時も、ジャケット写真の衣装で演奏された。

また映画『アイデン&ティティ』にこの時の衣装で一瞬だが出演している。

12月14日のライブにて後藤マスヒロ氏の脱退が発表された。

テクニカルながらヘビーなドラムの後藤氏は、人間椅子の音楽性を広げる上で大きく貢献した。それだけに脱退のニュースはファンにとって衝撃であった。

第四期ドラムス:ナカジマノブ(2004年~現在)

2004年6月、ドミンゴス等で幅広く活動していたナカジマノブ氏がドラマーとして加入した。

和嶋・鈴木氏から「バンドで練習したい」ということで曲の入ったMDを渡されてスタジオに入ったが、実はオーディション的な意味合いがあったらしい。

9月に12th『三悪道中膝栗毛』がリリースされた。ナカジマ氏が加入直後で短期間で仕上げたアルバムながら、15周年を記念したアルバムとして気合を入れて制作された。

ナカジマ氏の陽気なキャラクターは、今までの人間椅子のドラマーとは異なり、加入当初は戸惑うファンも見られた。

2005年は音源・映像の発売はなく、ツアーが行われたものの人間椅子としての活動は少ない時期だった。

2006年に13th『瘋痴狂』がリリースされ、ナカジマ氏のボーカル曲が3曲あるなど試行錯誤の作品とも言える。映像作品『遺言状放送』『見知らぬ世界』がDVD化された。

2007年には14th『真夏の夜の夢』が発売された。前作に比べ、ダークな人間椅子が復活している。

2009年には20周年を記念したベストアルバム『人間椅子傑作選 二十周年記念ベスト盤』をリリース。デビュー前後のレパートリーを再録するなど、これまでの活動を振り返る時期となった。

11月には15th『未来浪漫派』を発売し、和嶋氏の作風に変化が見られ前向きな楽曲が増加した。

2010年には徐々にライブ動員が増加する中で、初のライブ録音を行った。その模様は、ライブアルバム『疾風怒濤〜人間椅子ライブ!ライブ!!』として発売されている。

2011年には東日本大震災を経て、より力強いメッセージを感じさせる16th『此岸礼讃』を発売。この頃より、新譜発売時のライブで満員御礼となることが増えてきた。

2012年にはももいろクローバーZの『サラバ、愛しき悲しみたちよ』に収録された「黒い週末」はBlack Sabbathをオマージュした楽曲で、和嶋氏がギターソロで参加している。

これまで他のアーティストやアイドルの楽曲に参加することが少なかったため、大きな話題となった。

2013年にはBlack Sabbathのオジーオズボーンが主催するオズフェスト2013に出演。Black Sabbathを敬愛する人間椅子としては嬉しいニュースで、当時の知名度からは異例の大抜擢だった。

また和嶋氏はももいろクローバーZの出演する別日にもギターとして参加している。

同年8月には、オズフェストを”再デビュー”と考え、ヘビーな音楽を徹底して追求した16th『萬燈籠』を発表し、オリコンチャートでは35位を記録。

25周年にあたる2014年には1年足らずで、17th『無頼豊饒』をリリース。前作の作風を受け継ぎつつ、より歌詞の世界観を深めた内容となっていた。

25周年を記念し、ベストアルバム『現世は夢 〜25周年記念ベストアルバム〜』が発売され、2015年1月のツアーファイナルは渋谷公会堂にて行われた。

楽曲提供やタイアップなどが多くなり、8月にはアニメ「ニンジャスレイヤー」の第20話エンディング曲「泥の雨」や、ドラマ「JKは雪女」での劇伴などがあった。

11月には2度目のオズフェストへの出演を果たしている。

2016年2月には18th『怪談 そして死とエロス』を発売し、”怪談”をコンセプトにしつつ、より幅広い楽曲が見られる力作となった。

ROCK IN JAPAN FESTIVALやRISING SUN ROCK FESTIVALなど、夏フェスへの出演も相次いだ。

11月にはメルダックから発売されていた旧譜がUHQCDにて再発されている。

2016年には3本のツアーが行われ、その模様は2017年2月に2枚目のライブアルバム『威風堂々〜人間椅子ライブ!!』に収録された。1枚目に比べ、ライブ音源としてクオリティが高くなっている。

同月には和嶋氏の自伝である「屈折くん」が刊行され、人間椅子の歴史に加えて、和嶋氏の結婚・離婚歴など、これまで明かされていなかったエピソードも書かれている。

10月には20th『異次元からの咆哮』がリリースされ、ジャケットには鈴木氏が敬愛するねぷた絵師の三浦呑龍氏の絵が使用された。

2018年は三島由紀夫原作のドラマ「命売ります」の主題歌を書き下ろした。Eテレ「シャキーン!」の「サウンドファイターズ」コーナーに和嶋・鈴木氏が参加するなど、活動の幅を広げている

4月にはMV集『おどろ曼荼羅~ミュージックビデオ集~』が発売され、長らくパッケージ化されていなかった「ギリギリ・ハイウェイ」や「浪漫派宣言」などのレア映像も収録された。

2019年は活動30年を記念し、21thアルバム『新青年』をリリース。本作に収録されている「無情のスキャット」はYouTubeに公開されると、公開1か月で100万回再生を超える

30周年を記念したベストアルバム『人間椅子名作選 三十周年記念ベスト盤』が発売され、ツアーも行われた。ツアーファイナルは中野サンプラザで開催。

2020年2月には初の海外公演が、ヨーロッパで3か所行われた。海外公演への道のりについては、以下の記事に詳しくまとめている。

7月にTVアニメ「無限の住人-IMMORTAL-」の第2クール主題歌として、書きおろしの新曲「無限の住人 武闘編」が起用された。24年前のアルバム『無限の住人』以来のコラボレーションとなった。

9月には初の映画『映画人間椅子バンド生活三十年』が公開された。2019年の中野サンプラザ公演の模様を中心に、現在の人間椅子を感じられる映画となっている。

2021年にはニューアルバムの『苦楽』が発売されている。

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変化したこと・変化しなかったこと

ここまで人間椅子の30年の歴史を振り返ってきた。長い歴史の中には、バンドとして変化したこと・変化しなかったことがある。

この記事の後半では、人間椅子の過去・現在・未来を紐解く上で、変化したこと・変化しなかったことが何だったのか、掘り下げて考えてみたい。

変化したこと

人間椅子が活動してきた1989年から30年の間に、世の中も大きく変化してきた。それに呼応する形で、あるいはそれとは関係なく、人間椅子にも変化が見られている。

まずは人間椅子の歴史の中で変化したことをまとめた。その変化に、どのような意味があったのかについても併せて述べてみたい。

バンドの低迷とドラマーの相次ぐ交代

”イカ天”で華々しいデビューをした人間椅子だったが、バンドブームが去ると売り上げは落ちていった。デビュー時には大きな会場でのライブもあったが、徐々に会場は小さくなっていった。

ヒットしていたら、ここまで続かなかった」と和嶋・鈴木氏が語っている通り、売り上げが大きく下がったとしても、好きな音楽を続ける姿勢が一貫していたことが重要だったのだろう。

人間椅子の音楽性は変わっておらず、ハードロックというジャンルが日本において受け入れられてこなかったとも言える。

バンドの売り上げの低下は、ビジネスとしてはマイナスであるものの、人間椅子がバンドを辞める理由にはならなかった。

そして既にみてきたように、人間椅子はドラマーの交代が何度もあった。

交代が繰り返された要因は様々にあるだろう。中学時代からの友達であった和嶋・鈴木両氏とドラマーという構図になりがちであったことも理由の1つだ。

昔からの友人関係には、大人になってから知り合った人は入りにくい。それに加えて、バンドは売れない状況が続いたため、ドラマーとしても活動の継続が難しかったこともあろう。

一方でドラマーの交代とともに、人間椅子の音楽性も広がってきた歴史もある。

たとえば、後藤マスヒロ氏はプログレッシブな人間椅子の側面をより引き出しており、人間椅子の編曲に大きく貢献した。

各時期のドラマーの得意なジャンルに合わせて、人間椅子の音楽性も少しずつ変化している。結果的には、人間椅子の音楽性の幅を広げることになった。

しかしバンドメンバーとして一緒にいるには、音楽だけでなく人間的に合うかどうかも重要になってくるだろう。

そして金銭的な面・人生の選択など、様々なピースがはまらなければ一緒にやっていくことは難しい。

※22年ぶりに再会した人間椅子の元ドラマー土屋巌氏と

ナカジマノブの加入とバンドのキャラクターの変化

相次ぐドラマー交代を経て、2004年に現ドラマーのナカジマノブ氏が加入した。ナカジマ氏は加入後16年が経っており、歴代ドラマーのうちで最長の在籍年数となっている。

ナカジマ氏の加入は、前述の音楽性の変化とともに、バンドのキャラクターをも変化させたと言える。

音楽性としては、もともとロックンロールのドラムが強いナカジマ氏が加入したことで、サウンドはより明るいものとなった。

しかしもともと暗い音楽をやってきた人間椅子と、ナカジマ氏の明るいサウンドの融合が最初からうまくいった訳ではない。

作品としては『三悪道中膝栗毛』~『真夏の夜の夢』辺りでは、新たな人間椅子のサウンドを模索する時期となっていたように思う。

それだけナカジマ氏の個性が強く、そして今までの人間椅子にないサウンドだったということだろう。

時間をかけて、ナカジマ氏のドラムはヘビーになり、人間椅子全体のサウンドも明るさを持つように、お互いがすり寄った。

それとともに、バンドのキャラクターも変化していった。

ナカジマ氏は今までのドラマーにはない明るい人柄と、幅広い人間関係を持っていた。そのため、人間椅子のマネージャー的な立ち位置として、ライブ活動の幅を広げることに貢献してきた。

和嶋・鈴木氏のトークは面白いが、ナカジマ氏加入前は寡黙な印象が強かった。

ナカジマ氏の陽気なMCも馴染むようになり、2人も人間椅子のキャラクターも明るい方向に変化してきた。この変化には、SNSや動画サイトなどでトークをする機会が増えた要因もあるだろう。

もともと人間椅子のトークは面白かったが、より人前で話す機会が多くなったことで、さらに楽しい雰囲気が増してきたように思われる。

ナカジマ氏の加入は、音楽的な側面はもちろんのこと、バンドの空気感を大きく変化させた。社交性に乏しかった人間椅子だが、ナカジマ氏の加入によってずいぶんと改善された。

バンドがより活動的になっていく上では、ナカジマ氏の加入は重要な出来事だったと言えるだろう。

和嶋氏の変化と安定

人間椅子の歴史の中では、ギター和嶋氏の音楽性や精神性の変化が大きな要因となっている。和嶋氏の変化だけを追っていくと以下のようになる。

まずは高校時代にUFOにアブダクションされた経験から、作る楽曲がダークなものになったそうだ。初期の楽曲は、怖いもの・猟奇的なものをストレートに歌っている。

徐々に音楽性を広げながらも、一貫してダークな楽曲を作っていたが、2001年の『見知らぬ世界』では、今までにない明るい曲調の楽曲が急に多くなっている。

著書『屈折くん』によれば、離婚して千葉から高円寺に引っ越してきた時期に作られた楽曲のようだ。ささやかな幸せを感じる結婚生活ではなく、ミュージシャンとしての生活を和嶋氏は選択した。

自身のわがままを受け入れてくれた奥さんへの感謝と、ミュージシャンとしての再出発の気持ちが表れ、これまでになくストレートな表現が目立った。

しかしその後は、人生に迷うことが多かったためか、ヘビーな楽曲は減り、明るい曲調や実験的な楽曲が多くなってきた。酒に溺れることも多く、和嶋氏としては不調だった時期のようだ。

しかしある時期より、表現の軸となる感覚を掴んだと語るようになった。15th『未来浪漫派』の時期辺りから、歌詞に変化が見られ、和嶋氏はアルバイトも辞めたようだ。

これ以降、和嶋氏の作詞・作曲の調子が戻ってきたことで、人間椅子全体の勢いも出てきたように思う。

17th『萬燈籠』以降は、和嶋氏の楽曲の一貫性がより高まり、「なまはげ」「命売ります」「無情のスキャット」など、名曲が次々と生まれている。

和嶋氏は鈴木氏に比べると、新たなものを音楽に取り入れていく特徴がある。それ故に、時代ごとに作風が少しずつ変化するのが長年の特徴だった。

しかし近年は歌いたい内容が固まったことで、今までより芯の通った楽曲となった。これからも人間椅子の”変化”の部分を担うのが和嶋氏ではあろうが、軸足が定まった安定感があるのが今だ。

変化しなかったこと

変化したことは目に見えてわかるが、変化しなかったことは意識することが難しい。あえて変わっていないことを言語化することで、人間椅子の特徴が見えてくるのではないか。

ここではデビュー時から変化していないことをまとめた。

”日本語でハードロック”という音楽性

まずは音楽性がブレていないことが挙げられる。デビュー以前から70年代のブリティッシュ・ハードロックを日本語で演奏する、という音楽性は変化していない。

デビュー盤である『人間失格』では、既に人間椅子の代表曲が多数生まれている。

津軽三味線ギターを取り入れた「りんごの泪」、地獄の世界観を歌った「針の山」、猟奇的な歌詞の「天国に結ぶ恋」などがある。

また小説のタイトルを借りて楽曲を制作することも、デビュー盤から一貫している。人間椅子の音楽性は、中学時代に集まってハードロック鑑賞会をやっていた頃まで遡る。

その後、和嶋・鈴木氏はそれぞれでオリジナル曲を作っている。

鈴木氏は初めて作った楽曲「デーモン」なる曲から、既におどろおどろしいハードロックだった。後に「りんごの泪」「マンドラゴラの花」にリフが使われたというから、驚くべきことである。

一方で和嶋氏は学生時代は歌謡曲調のものが多かったが、前述のUFOのアブダクションによりダークな楽曲へと変貌している。

和嶋・鈴木両氏の音楽性の違いについては後に詳述するが、一貫してハードロックを中心とした音楽性は2人の間で一致していた。

ブリティッシュ・ハードロックの湿り気を、地元青森県の日本的な湿り気と再解釈した点は、それだけでも非常に興味深い。

そして津軽三味線奏法を用いたギターや、日本的なメロディ、そして難解な日本語を歌詞にするなど、”日本語でハードロックをやる”ための工夫が随所に見られる。

このようにデビュー前から音楽性が出来上がっており、それに確信があったからこそ、ポップスに寄ることもなく、デビュー時の音楽性を深めながら進化を遂げてきた。

デビュー時にもその音楽性や世界観は評価されていたが、30年続けたことでついに海外にも届くようになったのだろう。

好きな音楽をやるという姿勢

上記の”日本語でハードロック”という音楽性をやり通してきたのが、人間椅子の歴史だった。

和嶋氏は随所で「人間椅子は下積みがなかった」と書いている通り、下積みを通じて人間椅子の音楽性が出来上がったのではないだろう。

むしろ、既に最初から出来上がっているアイデアを、実験していく過程がデビュー後である。自らの作ったアイデアに縛られながら、逸脱しながら、ブレずに進化を続けてきたのである。

なぜここまで続けることができたのか?それは単純にハードロックが好きだったからに他ならない。

和嶋・鈴木氏の間でも好きな音楽は異なるものの、両者に共通してブリティッシュ・ハードロックがあった。

好きなハードロックを続けることが、2人にとって大事なことであり、売れることではなかった。

和嶋氏はインタビューで、4th『羅生門』発売後にレーベルとの契約が切れた後にも、音楽を続けたことが大きかったと述べている。

インディーズから発売した『踊る一寸法師』や、単発でのメジャー作品だった『無限の住人』『頽廃芸術展』、全てクオリティの高い作品であり、売り出し方の違いには左右されず名作を生み出している。

どのような売り方であっても、好きなハードロックを存分やれる状況を作り続けてきたのである。そして窮地に陥ると、不思議と誰かが助けの手を差し伸べてくれた、と和嶋氏は語っている。

この事実もまた、人間椅子が純粋にやりたい音楽を追求していたからこそ、その思いが良い縁を引き寄せたのだろう。

一方で鈴木氏は「人間椅子はヒットしなかったから続いた」と述べており、売れて純粋な気持ちが揺れ動くことがなく、同じように好きな音楽を作り続けられたのだ。

しかし30年続けるためには、並大抵ではない苦労もあったことだろう。これまでのすべてが、今の人間椅子を形作っているのではなかろうか。

人間椅子の歴史に関しては、ヒストリー本『椅子の中から』に詳しく書かれている。

そして、ぜひ現在公開中の映画「映画 人間椅子 バンド生活三十年」にて、その姿を目に焼き付けてほしい。

和嶋慎治・鈴木研一の関係性と両氏のバランス

最後に挙げたのは、和嶋慎治・鈴木研一という2人の関係性とそのバランスである。

人間椅子の歴史の項で述べた通り、この2人は中学時代に出会い、高校時代からともにバンドを組んでいる。30年以上ともにバンド活動を続けてきたことになる。

この2人の関係性はどのようなものなのか?インタビュー等からうかがえる内容を元に紐解いていこう。

まずは人間椅子の音楽性の中心にあるハードロックに関しては、鈴木氏の方が詳しかったようだ。KISSからハードロックに入り、より古い60~70年代ハードロックから80年代のNWOBHMも聴いていた。

一方の和嶋氏はビートルズが好きだったところから、Led ZeppelinやKing Crimson等の70年代ハードロック・プログレを好むようになったようである。

和嶋氏がブルースを好きなのに対して、鈴木氏はあまり好まず、和嶋氏の苦手なコテコテのメタルも好んで聴くなど、両者には好きな音楽には大きく違う部分もある

そして浪人時代に、鈴木氏が和嶋氏宛にBlack Sabbathのテープを送ったことで、和嶋氏もBlack Sabbathを好むようになったらしい。

大学時代には異なる大学に通いながら、人間椅子を結成し、「陰獣」や「りんごの泪」等の楽曲を、お互いの居所を行き来しながら制作していた。

大学の終わりには、鈴木氏は就職活動をして内定ももらっていたようだが、中古レコード屋で和嶋氏とばったりと出会うことがあったようだ。

鈴木氏はこの出来事に運命を感じ、内定を蹴ってバンド活動を行うことに決心したようである。

鈴木氏は冗談交じりに「和嶋くんが引きずり込んだ」と語っているが、和嶋氏もまたBlack Sabbathを勧めバンドマンとしての人生に向かわせたのは鈴木氏だと語ることがよくある。

この2人のお互いへの発言が、実に端的に2人の関係性を表しているように思える。つまり2人は、どちらかが引っ張っていくのではなく、お互いがなくてはならない存在だと言うことである。

そしてお互いに持っていないものを持っているために、ぶつかり合うことがなく、なくてはならない存在としてバンドが成り立っているのだろう。

デビュー後においても、”持ちつ持たれつ”の道のりだった。

デビューから活動初期においては、単独で作曲が難しかった鈴木氏のために、和嶋氏が作曲を手助けした共作によって数々の名曲が生まれた。その分、鈴木氏がボーカルやパフォーマンスで活躍した。

活動の中期(2000年代前半頃)、和嶋氏のプライベートでの不幸や悩みの中にあった時期には、鈴木氏が安定した楽曲作りによって人間椅子を支えてきた。

2010年代以降は和嶋氏が快調であり、鈴木氏が支えてきた人間椅子をまた大舞台へと引き上げている。

また楽曲制作の傾向としても、2人は異なるタイプである。

和嶋氏は同じものをコツコツ作るよりも、新しい方向性を作り出していくタイプである。そのため鈴木氏に比べれば、デビューから音楽性は変化が大きい。

そして和嶋氏はMVになる曲や、タイアップがつく曲を作ることが多い。オーダーに対して、ヒット曲を作ることができるヒットメイカータイプであるのではないかと思う。

一方で鈴木氏は、デビューからほとんど音楽性に変化はない。コツコツと良いリフやメロディを作り続け、出来が良いと結果的に”推し曲”となるのだが、そこまで狙っている感はない。

いつの時代を聴いても同じ安心感があるため、人間椅子を聴き込んでいくと、鈴木氏の楽曲にどっぷりハマる人も多いのではないか。

鈴木氏はコツコツと同じものを作り続ける職人タイプである。人間椅子の変わらない部分を担っており、30年の中で最も変わっていない部分と言っても過言ではないだろう。

この2人の楽曲が並ぶことで、ほど良く人間椅子らしい部分と、そこから逸れる部分のバランスが取られている。

2人の関係性、そして音楽的な特徴なども、ちょうどお互いにない部分を持っているため、人間椅子の音楽を作る上では、お互いがなくてはならないのだと思う。

まとめ – 人間椅子の魅力と、なぜ再ブレイクしたのか?

ここまで人間椅子の歴史、そして30年の歴史の中で変化したこと・変化しなかったことについてまとめてきた。最後に今回見えてきた人間椅子の魅力と、再ブレイクの要因について触れて終わりたい。

今回見えてきた人間椅子の魅力として、まずは結成当初からの和嶋・鈴木両氏がお互いをリスペクトし合いながら、変わらず素晴らしい楽曲を作り続けていることだろう。

「変化しなかったこと」で述べた通り、人間椅子は当初から”日本語でハードロック”という確固たる音楽性があり、それを純粋に追求してきたところが魅力である。

その姿勢を30年間続けたところに、多くの人が胸打たれるのではなかろうか。

そして和嶋・鈴木両氏のバランスは絶妙である。お互いの異なる音楽性、そして人間性がちょうど噛みあい、人間椅子という糸がずっと紡がれてきた。

そして各時代のドラマーとともに、人間椅子の当初からの音楽性を深く掘り下げていく道のりが続いていた。

その中で、現在のドラマーであるナカジマノブ氏の加入は、音楽性だけでなくバンドの雰囲気に変化をもたらした。

人間椅子の持つダークな音楽性は保ちつつ、より外に開かれた風通しの良さを身につけることができた。ナカジマ氏の持つ明るさ、パワーが人間椅子を大きくしてくれたのだ。

ナカジマ氏もまた和嶋・鈴木両氏をリスペクトしている。お互いを尊重する姿勢もまた、人間椅子の魅力の1つである。

動画サイトやSNSなどWeb媒体が広がることで、人間椅子を知る人が増えると言う追い風も吹いてきた。こうして徐々に人間椅子はライブ動員数が増えていくことになる。

それと同時に、和嶋氏の表現の軸が定まるような意識の変革もあった。やや迷走していた時期もあったが、特に『萬燈籠』以降の作品では代表曲となるような力強い楽曲が増えていった。

人間椅子を押し上げたのは、やはり”ポジティブなパワー”だったのだと思う。かつて「根暗なバンド」と言われた人間椅子だが、ダークさを持ちつつも、放つ力は人惹きつけるポジティブなパワーだ。

こうした変化に対して、かつての”根暗な”人間椅子が好きだ、という人もいるかもしれない。確かに根暗だった時代はあったことは事実だし、その頃の楽曲は今でも変わらず残り続ける。

しかし今の人間椅子の持つパワーは、今までにないほど力強い。このタイミングで人間椅子の音楽に触れられることはとても幸せなことではないかと筆者は思う。

過去の楽曲は記録として残り続けるが、今の人間椅子は今感じるしかないのである。

物事を続ける上では、揺るがない信念とともに、変化できる柔軟さも必要だ。人間椅子はどちらも持ち合わせたバンドなのだ。

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