音楽のジャンル分けは不毛な行為なのか? – 意義あるジャンル分けについて考える

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ハードロック

音楽ジャンルについてまとめたサイトによれば、ジャンル数は1387にわたると言う。そして音楽にまつわるジャンル分けには、様々な議論がある。

Every Noise at Once

ロックやジャズなど、自分の好きなジャンルが分かると、似たようなバンドを探しやすい利点がある。その一方、「このバンドはどのジャンルに当てはまるのか?」という議論はとても面倒くさい。

これはハードロックかヘヴィメタルか」など類似するジャンル分けの違いを議論することは、興味のない人からすれば不毛でしかないだろう。

「好きな音楽にジャンル分けは不要!」と言う意見の人もいるだろうが、やっぱり音楽的な違いを捉えるジャンル分けには一定の意味もあるし…となかなか困った産物なのだ。

このような音楽のジャンル分けに対する”面倒くささ”に対して、筆者なりに整理を試みようというのが今回の記事の趣旨である。

音楽のジャンル分けが不毛になる場合・意味を持つ場合について、筆者なりに感じているところをまとめてみた。

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音楽のジャンル分けが不毛な議論になる場合とは?

結論から先に述べてしまえば、音楽のジャンル分けが意味を成すかどうかは、その人の音楽の”好き”の基準がどこにあるかに大きく影響を受けている、と考える。

音楽の好きの基準が、ジャンル分けそのものであると思っている人が、ジャンル分けに関して不毛な議論に陥りやすいように思う。

たとえば「ヘヴィメタルが好き」「パンクが好き」など、ジャンル分け=音楽の好きの基準であるということだ。

音楽を好きになっていった経過を思い出してみてほしい。最初から「このジャンルが好きだ」と思って音楽を聴き始める人はまずいないだろう。

具体的に1つのバンド・ミュージシャンを、何かのきっかけで「この音の感じがカッコいい」とか、素朴に好きになっていったことと思う。

そしてそのミュージシャンが、ある特定のジャンルに入るとすれば、おそらく同ジャンルの他のバンドも好きに違いない、と言って聴くものが増えていくのだ。

しかしここで注意が必要なのは、最初に音楽を好きになった”何となく良い”という感覚的なものから、ジャンルと言う人為的に作られた枠組みへと移行してしまっていないか、ということである。

ジャンル分けとは、それぞれ個性のある音楽の中で、共通項と思われる枠組みを、人がラベル付けしたものに過ぎない。

それ自体を”好き”の基準にしてしまうことは、音楽の持つ多様性を排してしまい、ジャンルに当てはまるかどうか、が基準になってしまう恐れがある。

それこそが「これはロックか否か」などの不毛な議論にほかならず、ジャンル分けという枠組みの方が、本質的なものと錯覚してしまっている状態なのだ。

ジャンル分けを基準にしてしまうと、音楽を「かくあらねばならぬもの」と縛り付けることにもなる。

その結果、自分が好きなジャンルとそうでないジャンルは、”対立的な”ものとなってしまい、聴きたい音楽を自ら狭めることにもなりかねない。

音楽の”好き”という感覚は、ジャンル分けという人為的なラベルではなく、あくまでその人が感じた素朴な感覚の方に置いておく方が、不毛なジャンル分け議論にならないのではないか、と考える。

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音楽のジャンル分けが意味を持つ場合とは?

ここまで音楽の”好き”の基準を、ジャンルにしてしまうと、音楽ジャンル同士が対立的なものになってしまうことを指摘した。

ではジャンル分けを前向きに捉え、ジャンル同士が仲良く存在するためには、どうしたら良いか。音楽の”好き”を、ジャンルより高次の視点で持つことが必要になるのではないか、と考える。

つまり、ジャンルを包括するような視点からの、自分の”好き”を見つけると、逆にジャンル分けが有意義なものとなるように思える。

抽象的な話だけだと分かりにくいので、筆者の体験談を交えつつ、ジャンル分けが有意義になる聴き方について書いてみようと思う。

より包括的な音楽的特徴から聴く

ジャンルを包括する視点として、筆者の例を挙げておこうと思う。

たとえば、以前記事にも書いたが、繰り返しの多い音楽(リフが主体になるもの)が好きであると述べた。

繰り返し”リフ”のある音楽の魅力 – ブルース、ハードロックからダンス、アンビエントまで

繰り返しのフレーズ=リフと言えば、まず想像するのはハードロックである。Black Sabbath、人間椅子など分かりやすいリフの繰り返しに惹かれたのが、原初的な体験である。

ただし繰り返しフレーズの多いジャンルは、実にたくさんある。ソウルやファンクも繰り返しであるし、ポストパンクやアンビエントまで、繰り返しの技法はどこでも見られる。

たとえば上記のBlack Sabbathの「Killing Yourself To Live」のリフの繰り返しと、Incognitoの「Coribli」のギターカッティング・ベースリフの繰り返しの魅力は、筆者の中では繋がっている。

フレーズが淡々と繰り返されるところに中毒性があり、それが少しずつ展開て”揺れる”ところにも魅力があるが、そうした抽象的な視点で音楽を見ていくと、あらゆるジャンルが包括される。

しかし音楽的な様式としてのジャンル、すなわち音としてアウトプットされる際には、実に多様な出力になるのが面白いところだ。

こうして音楽を捉えると、ジャンルは対立するものではなく、1つの根幹となる特徴から派生していった仲間になるのであり、ジャンル分けの意義が引き立つのではないか、と考える。

音楽の精神性から聴く

ジャンルを包括する視点として、音楽的な特徴ではなく、もっと作り手の精神的なものを感じながら聴く、ということも筆者はしている。

筆者が好きになる音楽をあえて言語化すれば、純度の高い音楽であるかどうかである。つまり、できるだけ純粋に音楽を楽しんで作っていると思われるミュージシャンを好んで聞いている。

もちろん大衆音楽である以上、売れなければ生活が成り立たない訳で、ファンがついて音源を買ってもらったり、ライブに足を運んでもらったりしないと、成立しなくなる。

しかし、商売を成立させるための音楽なのか、音楽をやることで結果的に生活できるのか、という順序は大きな違いである。

どうも不自然に売れているミュージシャンからは、まるで化学調味料のような不純物が混じっているかのような、大衆を依存させるようなビジネスが蠢いているのを感じるのだ。

一方で純度の高い音楽は、依存的な支持者を生まないが、確実に音楽として伝わっている層に広まっていく。

いわゆる商業主義に反した音楽は、パンクなどがイメージされるが、”純度の高さ”で言えば実に多様なジャンルが含まれているように思える。

たとえば筆者の中では、以下のfOUL南佳孝人間椅子という全く別のジャンルの3組であるが、純度の高い音楽と言う意味では共通したものを感じている。

先日ライブを見たfOULであるが、まさにパンク的な精神の中で、売れることとは無縁の音楽である。が、3人で音を出す中で自然に生まれ出たような楽曲が魅力である。

また南佳孝氏は、ひたすら良いメロディを生み出すことを追い続けているソングライターである。ベースとなる音楽性はありつつ、常にマイペースで自分の音・メロディを作り続けている。

そして人間椅子もまた、デビュー前から日本語でハードロックをやるという1点において全くブレることがなく、幾たびの困難があれど、その精神性が揺らぐことはなかったバンドである。

純度の高い音楽を目指して、どのように音楽を作っていくのか、と言う視点で見ると、アウトプットになるジャンルの違いは興味深い現象として映る。

これもお互いが自分の中では対立するジャンルではなく、アウトプットの違いはあれど、どれも純粋な音楽づくりと言う点で共通している仲間ということになる。

そしてジャンル分けは、お互いを分断するためのものではなく、あくまで同じ仲間の中で個性を認め合い、理解するための枠組みとなるということだ。

まとめ

今回の記事では、音楽のジャンル分けは不毛なだけなのか、果たして意味のあることなのか、について考察してみた。

筆者の見解をまとめれば、ジャンルをジャンルの中だけで見ていると不毛な議論を起こすものであり、もう一段高次の視点から包括的に音楽を見た時に、初めて意味を持つものだということである。

これは音楽を聴き進めて行く過程で、ジャンルの意味付けが変わっていくことと関連するように思う。筆者の中では、音楽を聴き進めていく段階として、暗に以下のようなものを想定している。

  1. 素朴に好きな音楽・バンドを追いかける
  2. 好きなジャンルが明確になる・ジャンルで聴く
  3. ジャンルを横断して”好き”の軸が出来上がる(素朴な”好き”の再解釈)

音楽を好きになる時、最初は1.のように素朴に1つのバンドを好きになるもので、好きになる理由も特に言語化できないことが多いだろう。

もちろん、その段階のまま音楽を好きであり続けることも可能であり、むしろ最も幸せな音楽の聴き方とも言えるかもしれない。

しかし音楽に詳しくなるにつれ、2.の段階に進む人が一定の割合で存在する。ジャンルと言う枠組みで音楽を括ることで、整理されることがメリットだが、ジャンルにこだわり始めると厄介だ。

2.まで進んだ人は、そのさらに先である、ジャンルを包括する視点で音楽を聴く、その人独自の音楽に対する”好き”の軸が出来上がると、ジャンルの枠組みを飛び越えつつ、ジャンルを横断できる。

しかし実は3.は1.に回帰することでもあり、1.の素朴な”好き”をより明確に言語化できる・俯瞰できる段階が3.なのではないか、と考える。

残念ながら、2.のジャンルの枠組みにとらわれる段階が、最も不毛なジャンル論争を起こす人たちであり、かえって音楽の魅力の本質から遠ざかってしまうことになる。

音楽の”好き”とは、そもそもあまり言語化できないものであり、1.のような素朴な”好き”で良いのである。

しかしジャンル分けして整理したい人は、ジャンルを俯瞰できるまで、音楽を探究して俯瞰できる地点まで進むことをおすすめしたい。

有意義な音楽のジャンル分けとは、そうした地点から語られるジャンル論であると考える。

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