音楽における”エモい”という評価は本当に褒め言葉なのか? – 音楽ジャンルとしての”エモい”のルーツ

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eastern youth
画像出典:Amazon

エモい”という言葉を聞くようになって、長い年月が経っている。既に使い古された感もある言葉だが、いまだに意味がはっきりと分からないという人もいるのではないか。

”エモい”が使われる対象も多様であるが、音楽に対して使われる際、それは果たして褒め言葉として受け取って良いのだろうか。

”エモい”という言葉の意味、そして使われる状況などから考えると、音楽においては褒め言葉となる場合と、そうではない場合がありそうに思える。

今回は音楽における”エモい”について考察しつつ、筆者独自の視点で音楽ジャンルとして”エモい”もののルーツを探ってみようと思う。

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”エモい”という言葉について

最初に”エモい”という言葉について押さえておきたいが、既に解説された記事は多数存在する。

富士フィルムスクエアによれば、「エモい」とは若者の俗語であり、心が揺さぶられて、何とも言えない気持ちになることを意味する。

単に嬉しい・悲しいだけでなく、感傷的・哀愁的などのニュアンスもある。「エモい」が使われるのは、風景や青春的なストーリーや懐かしいものなど、実に多岐にわたるようだ。

2006年頃から若者の間で使われ始めた言葉のようで、三省堂が開催する「今年の新語2016」に選ばれたことで一般的な認知度も高まった。

ただ音楽業界では1980年代に既に使われていたそうで、音楽ジャンルとしてのエモ(Emo)から派生して生まれた言葉とも言われている。

エモの代表格と言われるJawbreakerは、”エモい”とは異なる感じがする。

そのため音楽に対しても”エモい”が使われるのだが、1980年代のハードコアパンクの流れから生まれたエモの雰囲気とは別のニュアンスを含んで発展した言葉と言えるだろう。

しかし同じ若者言葉の”ヤバい”のように、何でも使えてしまう”エモい”は便利である反面、本来のニュアンスを超えて使われることも多い。

本来形容されるはずの言葉ではなく、”エモい”と称されてしまうことで違和感を持つことさえある。”エモい”が相応しい場面・状況について、ある程度整理が必要なのではないか、と筆者は考える。

特に、音楽と”エモい”という言葉について、この記事では掘り下げて考えてみたい。

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ドラマ『モテキ』のラストシーンとその音楽は”エモい”のか?

”エモい”という言葉がしっくりくるもの・来ないものは、やはり存在する。ここでは、それが端的に示されていると思われる作品があるので紹介したい。

久保ミツロウ氏原作の漫画をドラマ化した『モテキ』(2010年放映)のラストシーンが、非常に題材として良いように思う。(以下ネタバレを含むのでご注意いただきたい。)

『モテキ』は、モテない派遣社員の藤本幸世に突如モテ期が到来する物語だ。複数の女性から連絡が来るようになり、物語は4人の女性との関係を巡って展開していく。

物語のラストは、主人公のモテ期が突如充電切れかのように去っていき、全ての女性が離れていってしまう。主人公は自転車に乗り、音楽プレーヤーのシャッフル再生を流し、走り始める。

そこで流れるのがeastern youthの「男子畢生危機一髪」である。主人公を演じる森山未來が自転車で爆走し、eastern youth吉野寿氏の汗だくで歌うライブ映像とが交錯する名シーンと言えるだろう。

このシーン、そして展開や映像などは、筆者は最高に”エモい”ものであると感じている。主人公の何とも言い難い感情の爆発に、eastern youthのこの曲がぴったりなのである。

しかしeastern youthの「男子畢生危機一髪」だけを取り出してみた時、音楽が”エモい”かと言われると非常に違和感がある。

確かにeastern youthの音楽はエモーショナルであり、感情を爆音に乗せているかのようである。ただそういう音楽を”エモい”と評価するところには違和感がある。

この違和感が何なのか考えてみると、”エモい”という感覚は非常に主観的で、シチュエーションを伴うものであるからではないか。

モテキのラストシーンは、eastern youthの曲も含め、あのシチュエーションや風景などから、鑑賞する側の内面に生じた感情が”エモい”と思わせるのだ。

それもこのドラマが放映された2010年前後に10~20代くらいだった層にとって、青春を感じさせるようなシチュエーションであったからである。

しかしeastern youthの音楽そのものは、そうしたシチュエーションや風景を喚起させる狙いがある訳ではない。それゆえeastern youthの曲を”エモい”と称するのには違和感があるのだ。

eastern youthの曲を聴いた人が、自らの体験やシチュエーションの中で、”エモい”と感じること自体は全く自由なことだ。しかし音楽自体、”エモい”と評価されるものではない。

ここまでをまとめれば以下のようになる。

音楽と”エモい”の関係は、シチュエーションと融合した主観的な感情としての”エモい”があり、音楽は”エモい”感情を作り出すシチュエーションの1つであることが多いことが分かった。

それゆえ音楽そのものが”エモい”訳ではないが、その人が自らの体験やシチュエーションとリンクさせれば、どんな音楽を聴いても”エモい”とも言えてしまう。

それは音楽を評価する言葉としては、”エモい”が適切ではない場合があることを意味する。

”エモい”音楽とそのルーツを考える – ZONE「secret base〜君がくれたもの〜」

話はややこしくなるが、一方で音楽の中には、確かに”エモい”音楽と言うものも存在する。(それはエモとは異なる)

”エモい”がシチュエーションを伴った主観的な感情の喚起であるとすれば、音楽自体にそうした仕掛け・意図が施されているものは、”エモい”と言って良いのではないか。

では”エモい”音楽とは、どの辺りから始まっているのだろうか。

ここから筆者のかなり独自な論を展開しつつ、もう少し深い意味での”エモい”を掘り下げてみたい。

まずもってそれは日本人が生み出した言葉であるからして、日本の音楽である可能性が高いだろう。そして”エモい”が言われ始めた2000年代後半に若者だった層に刺さる音楽だったはずである。

今や”エモい”はかなり年齢層が広がり、意味合いもかなり広がっているものの、狭義の”エモい”とは特定の年代に共有されていた感情のようなものに思える。

筆者も2000年代後半に高校~大学生だったので、近い世代である。

その筆者が思うに、日本の音楽シーンでヒットした曲の中ではZONEの「secret base〜君がくれたもの〜」が”エモい”音楽のルーツではなかろうか。

「secret base〜君がくれたもの〜」はガールズバンドZONEの楽曲であり、作詞・作曲は町田紀彦氏である。

ドラマ『キッズ・ウォー3 〜ざけんなよ〜』の主題歌に起用され、オリコンチャートは最高2位を獲得している。

この曲には、どこまで意図したか分からないが、”エモい”と言う感覚に向かわせる仕掛けが多数仕込まれているように思える。

まずは歌詞の世界観であり、これこそが”エモい”仕掛けの最たるものである。この曲で歌われているのは、秘密基地で遊んだ少年たちが転校で離ればなれになると言う物語である。

※男子2人の友情の物語であるようだが、そこは明確になっておらず、自由に感情移入できる余白が残されている。

この曲のポイントはまず歌の主人公たちが、およそ10歳にも満たない少年であり、歌詞に出てくる「10年後」だとしても、まだ10代か20歳そこそこの若者である、というところである。

これまでの音楽は、昔を懐かしむ・青春時代を懐かしむと言えば、森田公一とトップギャランの「青春時代」ではないが、「あとからほのぼの思うもの」だったのだ。

10代の若者が昔を思い出す、と言う感覚は確かにあるはずなのだが、歌としてここまでリアルに描かれたのが、この「secret base〜君がくれたもの〜」が初めてではないか。

時代的にも、2000年頃と言えば、歌手・芸能人の低年齢化が進み、若者礼讃の時代だったように思う。

そして歌詞も、従来のように大人の作詞家が若者の心情を文学的に表現する、という時代ではなくなっていた。もっと若者の等身大の感覚で描かれる歌詞が喜ばれる時代に入りつつあった。

「secret base〜君がくれたもの〜」は、まさにそんな時代を予感させる歌詞にもなっている。誤解を恐れずに言えば、決して文学的に高度な歌詞ではない。

もっと直接的であり、子どもが読んでもそのまま意味が理解できるような歌詞であるが、それが返ってこの曲を”エモい”曲に仕立てたように思う。

そしてもう1つ仕掛けがあるとすれば、そうした歌詞を当時まさに10代だったZONEが歌ったことに意味がある。

まさに等身大の若者の心情を、やや未成熟な表現ながら、それがリアリティを増したのだった。

こうした歌詞の世界観や10代の少女たちが歌うと言う表現方法を含め、これこそが”エモい”音楽ではないか、と筆者は考える。

とりわけ、若者がさらに若い頃を懐かしむ感覚は、”エモい”の根幹にあるものであり、その世界観をまさに表現したものだ。

歳を取ってから若い頃を懐かしむのとは違い、昔の感覚はよりリアルであり、まだ今の自分とかなりリンクしている。それゆえ、ヒリヒリした感覚もあり、だからこそ”エモい”のだ。

そして「secret base〜君がくれたもの〜」の世界観を描いたかのようなアニメ作品が「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」である。

楽曲から影響を受けた訳ではないようだが、エンディングテーマに起用されており、リリースからまさに「10年後」の2011年に放映されていた。

このアニメ作品も、徹頭徹尾”エモい”で埋め尽くされているように思えるが、ここで流れる「secret base〜君がくれたもの〜」は、楽曲自体も”エモい”ものだと評価されるだろう。

先ほど取り上げた『モテキ』のラストシーンとeastern youthの楽曲の例とは異なるものだ。

では他にどのようなものが”エモい”音楽になっていくのかと言えば、やはり”エモい”シチュエーションを仕掛けた音楽と言うことになろう。

たとえば2005年のケツメイシの「さくら」は楽曲そのものの世界観に、映画のようなMVの世界観を融合することで、”エモい”感覚を喚起させるもののように思う。

また女性アイドルの楽曲は、”エモい”感覚を呼び起こさせる仕掛けが満載のように思える。とりわけsora tob sakanaの「夏の扉」は、幼い彼女たちの歌唱と相まって、得も言われぬ”エモさ”がある。

まとめ – ”エモい”の感覚の原点

今回は音楽と”エモい”という言葉について、あれこれと考察してみた。今回述べたことを、以下に箇条書きにしてまとめた。

  • ”エモい”はシチュエーションや風景と結び付いた主観的な感情である。
  • 音楽は”エモい”シチュエーションを作り出すための要素であり、音楽そのものが”エモい”と評価することが適さない場合がある。
  • ”エモい”とは、若者がさらに遡った時代を懐かしむ、という現象から始まり、そうした題材を扱ったZONEの「secret base〜君がくれたもの〜」が元祖”エモい”音楽である。

”エモい”の感覚の原点をたどっていくと、2000年代を生きた若者たちが感じた、さらに若い時代を思い出すことによる感傷だったのではないか、と筆者は思う。

時代の流れがどんどん速くなったからこそ、そうした現象が生まれたのではないか、とも思える。

そして”エモい”の意味するところは、徐々に広がり、何となく懐かしくて心が揺さぶられる感覚のことを言うようになったのである。

しかしこの原点の感覚から外れるほどに、”エモい”はよく分からなくなるし、やはりある世代の中で共有されている感覚のようにも思える。

だからこそ、安易に音楽を”エモい”と評することには、その時代を生きてきた筆者だからこそ違和感を持つものである。

おそらく”エモい”音楽と言うものは非常に限られたものであり、評価としてあまり使わない方が良いように思う。あくまで自分自身に生まれた感覚として、”エモい”を用いた方が良いだろう。

少しでも”エモい”という正体不明の感覚の理解の助けになれば幸いである。

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