6月25日より全国公開された映画「いとみち」。その挿入歌には人間椅子の2001年の楽曲「エデンの少女」が選ばれている。
人間椅子に関する記事を数多く書いてきた当ブログとしては、非常に注目していた映画だった。筆者も鑑賞することができたため、今回は感想を含めて記事にしてみようと思った。
人間椅子の数ある楽曲の中で、なぜ「エデンの少女」が選ばれたのか?映画を観るまでずっと気になっていたことだ。
この記事では、まず「エデンの少女」が挿入された場面を紹介する。そして映画「いとみち」で描かれた内容・テーマを筆者なりにまとめてみた。
その上で、映画「いとみち」そして「エデンの少女」の内容をリンクさせながら、なぜ「エデンの少女」が「いとみち」の挿入歌となったのか、考察していこうと思う。
※映画公開前に「エデンの少女」の内容、原作者コメントなどをまとめた記事はこちら。
※以下、映画のネタバレがあるため、まだ映画を観ていない人は注意いただきたい。
挿入歌「エデンの少女」が使われた場面は?
人間椅子の楽曲「エデンの少女」は、物語も中盤に差し掛かろうとする頃に登場する。主人公相馬いと(駒井蓮)は、資料館で太平洋戦争末期の青森空襲について知る。
その資料館からの帰り道、友人の早苗(ジョナゴールド)にいとは声をかける。それまでの2人は友人関係なのかどうか、今一つはっきりとしないまま描かれる。
早苗はイヤホンで音楽を聴いており、いとは何を聴いているのか尋ねる。そこで聴いていたのは、早苗がファンであると言う人間椅子の楽曲だった。
その楽曲こそ、「エデンの少女」である。そして帰り道のシーンでは、「エデンの少女」が流れる。
この映画では、あまり大掛かりなBGMは用いられない。静かで、アンビエント的なBGMが用いられるが、歌のある楽曲が使われるのはこのシーンのみである。
監督の横浜聡子氏は、映画の中で青森空襲に関する内容を入れたかったようだ。必ずしも本編の内容に関わるシーンではないが、ややシリアスなムードを作るのにも一役買っている。
そのシーンから、いとと早苗の友情が芽生えるシーンで、「エデンの少女」は流れる。何か物語が希望に向かって進むようなイメージで、筆者はこのシーンを見た。
そしていとの中で三味線への思いが、大きくなっていく重要なシーンでもあった。「エデンの少女」は、映画の内容とも非常にリンクする位置づけで挿入されているように思えた。
映画「いとみち」で描かれたもの
映画「いとみち」のあらすじは、既に過去の記事にまとめている。不器用な女子高生の相馬いとが、三味線を通じて成長していく物語となっている。
しかし単に”女子高生の成長物語”と言うほど、安易なテーマではない。物語全体を俯瞰すると、いくつかのテーマが浮かび上がってくるように思えた。
まずは、青森という”ローカルな”場所で生きる女性たち、という視点である。全て青森県で撮影されたという本作には、青森以外の場所は、回想なども含め一切描かれない。
いとの父である耕一(豊川悦司)は東京の出身であるが、東京のシーンも描かれることはない。まさに青森県というローカルな場所の中だけで起きた物語を描いた点が特徴だ。
ただし、登場人物たちの生活が、社会と言う大きな構造の中にあることが随所で描かれる。そして社会構造の中で搾取されてしまう人々の姿が描かれているのだ。
いとがアルバイトをしている「津軽メイド珈琲店」は、苦労しつつも何とか経営が続いていた。しかしオーナーである成田太郎(古坂大魔王)が違法なビジネスに手を出して逮捕されてしまう。
それにより、津軽メイド珈琲店もバッシングに遭い、一気に客足が遠のいてしまう。店で働くメイドの幸子(黒川芽以)や智美(横田真悠)にとっては生活のため、夢のために必要な場だった。
店が潰れてしまえば生活が成り立たなくなる人々の危うさが、さりげなく描かれている。
社会構造の脆弱さと、その下層では搾取されながらも、その中で生活するしかない人々の姿がある。
ミクロな視点から登場人物を見ると、傷を抱えている人間の弱さ・強さも丁寧に描かれている。
シングルマザーの幸子、漫画家を目指すも自己肯定感の低い智美、自分の思いを表に出せない店長の工藤(中島歩)、貧困家庭の早苗、主人公のいとも幼くして母を亡くしている。
そんないとは、「津軽メイド珈琲店」で自身の弱さと向き合う場面が訪れるのであった。
それぞれに抱えている傷は異なる。物語の中では、他の登場人物も自身の傷に触れるような場面が描かれている。
傷に触れる瞬間は痛みが伴うが、お互いの傷を知ることで距離が縮まっていく。傷を抱える人は、一方で強さも秘めている。
弱さがあっても、”その人らしさ”に気づけば、誰もが輝くことができるのだ、と感じさせてくれる。
「エデンの少女」と「いとみち」
映画「いとみち」で描かれていると筆者が考えるテーマを述べてきた。
それを踏まえ、改めて「エデンの少女」がこの映画でどんな意味を持つのか、そして歌われている内容が映画とどうリンクするのか、考察してみたい。
まず「エデンの少女」がどのようなことを歌った楽曲なのか振り返っておこう。モチーフは、和嶋氏が図書館で見たと言う、統合失調症と思われる少女だ。
歌詞には「明日からは幸せなこと始まるだろう」「少女よ駆け抜けろ」とある。ハンディを抱える少女に、真の純粋さを見た和嶋氏は、前向きな楽曲を作った。
真の純粋さとは、ただ明るさを言うのではない。闇を抱え、弱さを持つからこそ、純粋な強さも持ち得るのではないだろうか。
※「エデンの少女」について詳しくはこちらの記事で書いている。
映画の中で「エデンの少女」は、いとと友達の早苗を結びつける楽曲であった。そして早苗の家に行ったいとは、手放していた三味線の魅力に再び気づいていく。
お互いに弱さを抱えている2人が、打ち解け合う。次第にいとは自分らしさに気づき、三味線への向き合い方・父親との関係にも変化が生まれるのであった。
ここには綺麗事ではない、リアルな人間の成長の物語がある。横浜監督の「劇的には描きたくなかった」という、ありのままの少女の成長が丁寧に紡がれている。
そんな弱さを抱えた者の変化・成長のストーリーは、「エデンの少女」が歌う内容とリンクしてくる。
一人ひとりは小さく弱い存在であっても、誰しもが輝く種を持っている。そして人との出会い、そしてお互いが触れ合う中で、前向きな力が生まれていく。
そんな前向きな力は、自分を変え、そして周りをも変えていくのである。
”エデン(=理想郷)”とは、何なのかと考えさせられた。それは決して具体的な場所ではないのだろうと思った。
それは青森から東京に行くことでもないし、いとも津軽メイド珈琲店でバイトしただけでは、何も変化は起きなかった。
エデンとは、その人が輝かしく生きられる場所であり、自分らしい生き方を見つけられること、なのかもしれない。
いとにとっては、津軽メイド珈琲店での人々との出会い、そして早苗と出会い、三味線を弾くことだった。
エデンとは自分らしく、純粋にいられる場所であり、それは自分自身で見つけるべきものなのかもしれない。
まとめ – なぜ「エデンの少女」が「いとみち」の挿入歌に選ばれたのか?
最後に、なぜ人間椅子の楽曲の中で「エデンの少女」が選ばれたのか、についても考えてみたい。
この映画では、弱さを抱えながらも前向きに成長する少女を描いていた。そもそも人間椅子の楽曲で、そんなテーマに合う楽曲は「エデンの少女」しかないかもしれない。
「少女」をテーマにした楽曲が限られるという点もあるが、『見知らぬ世界』という作品に収録されている点も見逃せない。
10thアルバム『見知らぬ世界』は和嶋氏にとっては転機となったアルバムである。結婚生活を送っていた和嶋氏は、表現者としては納得のいっていない時期だったようだ。
そして離婚を決意し、再び音楽と向き合ったのが『見知らぬ世界』だったそうだ。この辺りの話は、和嶋氏の著書『屈折くん』に詳しく書かれている。
そんな『見知らぬ世界』は、和嶋氏が自分の中にある素直な表現を求め始めた作品と言えるかもしれない。人間椅子らしさ、ハードロックらしさにこだわらず、自由に作りたい楽曲を作っている。
「エデンの少女」も人間椅子の楽曲の中では異色の明るさである。歌謡曲のようなメロディは発売当時は賛否両論あった楽曲の1つだった。
そして『見知らぬ世界』の和嶋氏の歌詞は、人間が持つ感情や性格などを丁寧に描いたものとなっている。「エデンの少女」は人間の純粋な心を歌ったものだ。
『見知らぬ世界』は和嶋氏がそんな人間の普遍的な性質に気づき始めたアルバムかもしれない。
ここ数年の和嶋氏の歌詞は、この『見知らぬ世界』の作風に近いものがあるようだ。和嶋氏は普遍的な美しさのようなものを感じてから、歌詞にブレがなく、前向きな内容となった。
そして人間椅子・和嶋氏自身が、いくつもの障壁を超えてきた。そんな今があるからこそ「エデンの少女」の説得力は、今の方が増しているようにも思う。
だからおよそ20年前の楽曲であるが、古さを感じないし、こうして映画の挿入歌となったのだろう。
こうして考えてみると、映画の世界観と深いところで繋がりを感じさせる楽曲だったように思えてくる。
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