【陰陽座】”組曲”シリーズの全紹介と音楽的な魅力について – 変幻自在の展開とその美学

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妖怪ヘヴィメタルバンドを謳い、結成25年となった陰陽座。彼らはヘヴィメタルを軸にしながらも、多様な音楽性を感じさせる楽曲が魅力である。

彼らの楽曲にはいくつかシリーズと呼べるものがあるが、中でも複数の楽曲を繋げて1つにまとめ上げた”組曲”シリーズが素晴らしい。

1つのコンセプトに沿って連関を持ちつつも、独立した楽曲としても楽しめる、組曲シリーズにしかない魅力がある。

今回の記事では、これまで陰陽座が発表した組曲シリーズの紹介と、その魅力について書いてみた。

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”組曲”シリーズ全紹介と音楽的な魅力

まずはこれまで発表されている組曲シリーズを紹介しながら、それぞれの組曲の魅力について語りたい。

今回の記事では魅力の中でも、音楽的な意味での魅力を取り上げたい。組曲シリーズは、壮大な物語を描くと言う歌詞や世界観の魅力ももちろんある。

しかしそれを表現すべく、いかに音楽として、楽曲として聴いて魅力のある作品になっているか、ということがとても重要である。また組曲全体だけでなく、個々の楽曲も魅力的なのだ。

そして連作になっている楽曲の並び・展開や、そこに見える美学のようなものについても語っていきたいと思う。

※陰陽座がどのようなバンドであるかは、こちらの記事をご覧いただきたい。

組曲「黒塚」

  • 作詞:黒猫、作曲:黒猫&瞬火(安達ヶ原)、瞬火&黒猫(鬼哭啾々)
  • 含まれる楽曲:「安達ヶ原」「鬼哭啾々」
  • 収録アルバム:『煌神羅刹』(2002年)

陰陽座にとっては初めての組曲であり、2002年の3rdアルバム『煌神羅刹』に収録されている。歴代組曲の中では2曲の連作と、最も短い組曲である。

また後の組曲全て作詞・作曲がベース・ボーカルの瞬火氏によるものであるが、本作は作詞がボーカルの黒猫氏、作曲が2曲で黒猫氏・瞬火氏による共作となっている点も異色である。

本作は能の演目である「黒塚」をモチーフにした楽曲であり、老女が人を喰らう鬼であったことが「安達ヶ原」の中でセリフとして描かれている。

そして後半の「鬼哭啾々」では鬼を成敗する山伏の視点から描かれた物語となっている。

「安達ヶ原」では鬼となった老婆の悲しみが、アコースティックサウンドで切々と歌われる。

一方の「鬼哭啾々」では成敗する山伏の力強さと、鬼の存在へのこれまた悲しみが激しいメタルサウンドで描かれている。

なお「鬼哭啾々」の中にも、ギターソロの途中で転調し、(おそらく黒猫氏による)「安達ヶ原」を連想するメロディが挿入されているところも、組曲ならではの展開で素晴らしい。

アコースティックで静かな曲調から、一気にスピーディなヘヴィメタルへ、と言う流れはヘヴィメタルの1つの王道と言っても良いだろう。

古く遡れば、Led Zeppelinの「Stairway to Heaven(天国への階段)」が1曲ではあるが、アコースティックな前半からハードな後半へと流れる、1つの様式を作ったと言える。

こうした王道の流れを踏まえたものであり、非常にストレートで感情移入しやすい組曲となっている。

また「安達ヶ原」の終わりの「喰ろうてしもうたからです」のセリフから、「鬼哭啾々」の和風のリフへ流れる展開は何度聴いても。鳥肌が立つ。

ハードロック・ヘヴィメタルの美味しい展開を盛り込んだ本作は、初の組曲にして非常にクオリティの高い楽曲群になっていると言える。

組曲「義経」

  • 作詞・作曲:瞬火
  • 含まれる楽曲:「悪忌判官」「夢魔炎上」「来世邂逅」
  • 収録アルバム:『臥龍點睛』(2005年)

陰陽座の組曲としては2作目となる「義経」は、2005年の6thアルバム『臥龍點睛』に収録されている。また個々の楽曲が全てシングル化されているのは組曲「義経」のみである。

シングルと言う形態におよそ似つかわしくない組曲を取り上げたのは、かなりの自信作だったからではないか、と想像する。

「黒塚」のようなヘヴィメタルと演劇的な要素をより広げ、3曲からなるより長大な物語を作り上げた、当時の陰陽座としての1つの到達点と言っても良いかもしれない。

組曲「義経」では源義経を中心に描かれ、兄の頼朝との対立から自害し、遺された静御前の視点からも物語が描かれている。

「悪忌判官」では戦に長けた義経が兄の愛が欲しい一心で戦う力強さがストレートなヘヴィメタルで表現されている。

「夢魔炎上」では兄に疎ましく思われている義経の視点、頼朝が弟を討伐することを決意する物語や、捕らえられた静御前が舞を踊るも、義経の子は殺されてしまう場面などが描かれている。

そして「来世邂逅」では義経の子が殺されてしまったことを自らの罪と感じ、来世で義経と邂逅することを願う場面が歌われている。(静御前の死については諸説あるようである)

Yahoo!知恵袋に丁寧に各楽曲の場面を説明した回答があったので参考にした。

楽曲を並べて1つのストーリーを連想させる組曲「黒塚」に比べ、より物語を表現することに力点が置かれている印象で、ロック戯曲と言っても良い仕上がりとなっている。

その構造を述べるとすれば、「悪忌判官」がオープニングテーマ、そして本編が「夢魔炎上」、エンディングテーマが「来世邂逅」と言ったところだろうか。

もちろん3曲ともにストーリーがあって繋がってはいるものの、歌だけで構成された前後2曲に比べると「夢魔炎上」はセリフの割合がかなり多く、物語の本編と言う位置づけが適当にも思える。

音楽ジャンル的には、ストレートなヘヴィメタル→プログレ風味のロック戯曲→バラードという並びになっている。

比較的コンパクトに楽しめる前後に挟まれた「夢魔炎上」はおどろおどろしくも、飽きさせない展開と次々に出てくる良いメロディが素晴らしい。

そしてこの時代の陰陽座の特徴でもあるが、全体的に歌謡曲的なメロディと歌を聴かせる要素が強いため、長尺で物語性の強い楽曲でも、シンプルに楽しめるところが魅力と言って良いだろう。

ただこれ以上ロック戯曲的な方向性を広げるつもりはなかったのか、セリフがたくさん登場する組曲はこれ以降作られていない。

組曲「九尾」

  • 作詞・作曲:瞬火
  • 含まれる楽曲:「玉藻前」「照魔鏡」「殺生石」
  • 収録アルバム:『金剛九尾』(2009年)

3作目となる組曲は「九尾」であり、2009年9月9日にリリースの9thアルバム『金剛九尾』という徹底して”9”にこだわった作品に収録されている。

アルバム自体が九尾の狐をテーマにしたものであり、その中のいわばリードトラックともなるのが組曲「九尾」と言えるだろう。

組曲「九尾」の題材となったのは、妖狐が正体である玉藻前の物語である。鳥羽上皇に寵愛され、九尾の狐の正体がバレて、殺生石になるという話だ。

「玉藻前」では鳥羽上皇に玉藻前が語りかける楽曲であり、非常に官能的な歌詞を四つ打ちのディスコビート、ポップなメロディで歌う、と言うこれまでにない組曲の始まり方である。

「照魔鏡」では鏡によって九尾の狐の正体が明かされる物語が歌われる。実は腹黒い玉藻前の内面が歌われ、徐々に正体が明らかになっていく物語をスリリングな展開で表現している。

勢いを保ったまま「殺生石」に流れ、毒石となった九尾の狐の最後を描く。スラッシュメタル調なのは、断末魔の叫びのようでもあり、中間に出てくる美しいメロディは玉藻前の内面が表れたものか。

※歌詞の解析を行ったこちらの記事を参考にした。「玉藻前」「照魔鏡」「殺生石

前作の組曲「義経」と同様3曲による組曲だが、作品の方向性としては変化も見られている。

端的に言えば、セリフや歌詞の中で物語性を見せた組曲「義経」から、サウンドや展開、歌い方やコーラスなど、音楽的な要素で物語性を見せる組曲「九尾」への変化である。

「黒塚」「義経」へと組曲の方向性は、ロック戯曲の方向に進んだのであるが、やはり陰陽座は役者ではなくミュージシャンであり、ロック戯曲の方向性はこれ以上突き詰めるものではないと感じたのか。

組曲「九尾」では物語の展開や雰囲気を音楽的な要素で示している。たとえば「玉藻前」の妖艶で官能的な雰囲気を、12弦ギターの音色や艶やかなメロディラインとダンスビートで表現している。

また「照魔鏡」は九尾の狐の本性をおどろおどろしいリフで表現し、その正体が明らかになるシーンではさらにヘヴィで怪しい展開をし、徐々に追い詰められていく部分は性急なビートに変わる。

「照魔鏡」のラストは、黒猫氏・瞬火氏のやや気味の悪いハモりによって、完全に正体が暴かれる場面が表現されている。

さらに「殺生石」はもはや石になってしまった存在の叫びを、スラッシュメタルという衝動的なサウンド・ビートで表現し、劇的なラストを見事に表現している。

また組曲「九尾」は全曲の冒頭に同じフレーズのリフを配置し、それぞれ少しずつメロディを変えることで、各パートの雰囲気を伝える役割も担っているようだ。

ストーリーを言葉や歌の歌詞で説明する側面もあった「義経」までと、サウンドや展開重視で通常の楽曲としての形を保ったまま、ストーリーを伝える「九尾」では明らかに変わってきている。

それは組曲の変化だけにとどまらず、分かりやすい歌謡曲的なメロディを前面に出していた時代の陰陽座から、徐々にサウンド全体のクオリティを向上させる方向性へとシフトしてきた歴史と重なる。

分かりやすさ・ポップさはもちろん残しつつも、ある意味で玄人的な方向に舵を切った作品とも言え、次のアルバム『鬼子母神』にその流れが引き継がれている。

組曲「鬼子母神」

  • 作詞・作曲:瞬火
  • 含まれる楽曲:「啾啾」「徨」「産衣」「膾」「鬼拵ノ唄」「月光」「柘榴と呪縛」「鬼子母人」「怨讐の果て」「径」「紅涙」「鬼哭」
  • 収録アルバム:『鬼子母神』(2011年)

陰陽座の組曲としての集大成とも言えるのが、アルバム1枚丸ごと組曲とした組曲「鬼子母神」であり、2011年の10thアルバム『鬼子母神』に収録されている。

12曲からなるアルバムであり、組曲となっているが、ストーリーについては原作の脚本と言う形で『絶界の鬼子母神』として発刊されている。

「鬼子母神」をテーマにした壮大な物語をアルバムにするという構想は、1stアルバム発表前からあり、12年間をかけて温め続け、脚本の執筆は約1週間で仕上げたという。

本作はそのストーリーにもとづきつつ、ストーリーにはない展開やセリフも歌詞に交えながら、1枚の音楽作品として純粋に楽しむこともできるアルバムとなっている。

アルバム1枚のレビューを書くことになるため、とてもここでは書ききれないが、組曲と言う観点から述べておこう。

ストーリーは自分の子どものために、子どもを取って食べていたという鬼子母神の伝承から着想を得て、人間社会に置き換えた物語として作られている。

あらすじとしては、山中でさまよっていた十蔵は戦火で妻子を救えなかったことを悔やみながら、”オニコサ村”で助けられるが、鬼を退治してほしいと頼まれた十蔵は不思議な光景を目にする。

一方でこの村では赤子の「生き肝」を喰う事で、死んだ子が生き返るという邪法が信じられ、静は生後間もなく亡くなった我が子を生き返らせようとしていた。

詳しくは原作脚本やこちらの記事、あるいは瞬火氏のインタビューをお読みいただくとして、各楽曲で描かれる場面の概要は以下の通りである。

  1. 啾啾:山の頂上にいる”鬼”がはなに話しかけるシーン。物語のラスト。
  2. 徨:九鬼十蔵は戦火で妻子を失った悪夢を見ながら、山中を彷徨う。亡くなった妻の佳乃が天の声で語りかける場面も。
  3. 産衣:息子を亡くした静が現実を受け止めきれず空の産衣をあやしているシーン。生き返らせるための反魂香を焚くため、「贄子」の生肝が必要になる。
  4. 膾:”オニコサ村”で助けられた十蔵が鬼退治を依頼されて洞窟に行くと、縛られた男がいるだけだった。村人の平太と又六は十蔵に男を斬るように言うが十蔵は戸惑い、平太が男を斬り、今度は十蔵が捕えられてしまう。
  5. 鬼拵ノ唄:”オニコサ村”は鬼拵村であり、全ての責任を鬼にあるとする悪い因習がある。村人たちが鬼の仕業と決めつければ安寧を保てるとする倒錯した喜びの歌。
  6. 月光:生肝を得るための「贄子」を盗んできた静だが、名前を付けたり、乳をやっているうちに情が湧いてきてしまったという場面。
  7. 柘榴と呪縛:十蔵は茂吉に助けられる。茂吉は妻を村人に殺され、我が子を贄子に差し出した過去を持ち、復讐に生きようとする。別の贄子「はな」に死んだ茂吉の妻「葉奈」が入り込み、復讐を止めようとする。
  8. 鬼子母人:村の巫女である禎は贄子をささげる役目であり、それは村のためと言いつつ、実は我が子を蘇らせるためと言う目的があった。
  9. 怨讐の果て:村への復讐のため茂吉は平太や村人たちと戦い、平太を倒すも村人たちに殺される。死んだ「葉奈」が茂吉に復讐を止めるように語り掛ける。
  10. 径:十蔵と静、はなは村人に包囲されるが、鬼の役目だとハッタリをかまして逃げ出す。後半は追ってくる村人から静とはなは逃げ、十蔵は応戦。生きて会う約束をするも十蔵は命尽きる。
  11. 紅涙:静とはなは十蔵によって村から逃げて山に登る。しかし待っても十蔵は来ることがなく、静は血の涙を流す。
  12. 鬼哭:静ははなとともに山を出る決意をする。村からは鬼拵ノ唄が聞こえており、まだ因習が終わらないことを知る。

上記の内容は、瞬火氏のインタビュー記事、またこちらの解説記事、およびYahoo!知恵袋に回答されていた楽曲解説等を参考にした。より詳しい歌詞や世界観の解説はそちらをご覧いただきたい。

陰陽座、人の心の奥底を照射する初のコンセプトアルバム『鬼子母神』大特集

陰陽座、人の心の奥底を照射する初のコンセプトアルバム『鬼子母神』大特集 | BARKS
陰陽座トータル・コンセプト・ストーリー・アルバム『鬼子母神』2011.12.21リリース特集TOPINTERVIEW-1...

本作は1枚のアルバムと言う事でもあるが、しっかり組曲として相互に関連を持っており、非常に工夫も細かく凝らされている。

たとえば曲名の文字数によって、誰の視点かが分かれている。漢字一文字は十蔵で、二文字は静、四文字は鬼拵村側の人間、五文字は茂吉の歌となっているそうだ。

また音楽的にも楽曲同士の関連が見られる。すぐに分かるのは冒頭の「啾啾」はイントロ曲であるが、ラストの「鬼哭」と繋がっており、実は同じ場面であると認識できる。

また「徨」の後半に登場するCメロ部分のリフは、「径」の冒頭のリフの変型バージョンであり、同じ十蔵の物語として繋がっていること分かる。

また「膾」と「鬼子母人」は異なる主人公の視点からの楽曲ながら、曲の終わり方はほぼ同じであり、同じ状況(鉞が振り下ろされる)を示しているようである。

こうした細かい仕掛けも含めて、トータルとして組曲に仕立てることに関しては本当に隙がないので感服するものである。

組曲としての流れを意識するとともに、通常の音楽作品・アルバムとして聴けることについても、かなり意識されているように思える。

ハード・ヘヴィな楽曲で固めた前半から、ダークなお祭りソング「鬼拵ノ唄」に、中間はメロディの美しさが際立つ「柘榴と呪縛」の流れも素晴らしい。

そしてシンフォニックな「鬼子母人」から一気にラストへと駆け抜け、王道メタルの「鬼哭」で美しくアルバムを締めることに成功している。

確かに忍法帖シリーズや、明るい作風の楽曲がないのは全編組曲にした故ではあるが、ダークかつシリアスな雰囲気でまとめ上げたコンセプト作として聴けば全く違和感はない。

さらにはイントロ曲「啾啾」を除いては、全ての曲で歌がある通常の楽曲で構成されている点にもこだわりを感じる。

こうしたストーリー性のあるコンセプト作にありがちなのは、インストにセリフが入った楽曲を所々に入れることで物語性を持たせ、通常の楽曲とは差別化したものを入れると言う手法だ。

しかしそうしたコンセプトアルバムのための曲として、各楽曲を考えるのではなく、しっかりと1曲ずつが独立して存在しえるものが、合わさることで1つのコンセプトアルバムになるという考え方だ。

瞬火氏のインタビューにもあるように、「“音楽として楽しむ”と“完全にストーリーを表現している”の二つを兼ね備えたかった」という夢をかなり完璧に実行できた作品と言える。

言い換えれば、コンセプトや物語と言うトップダウンの要素も満たしつつ、個々の曲からアルバムを構成していくボトムアップの要素も、違和感なく絡み合って相互に魅力を高め合っているということだ。

ストーリーの表現と音楽作品の両立をするという瞬火氏の野望は、2、3曲の中に詰め込むのではなく、アルバム1枚を使うことでついに実現できたと言えるだろう。

組曲「九尾」から音楽としてストーリー性を表現することを突き詰めた結果、非常に構築されたものになったと同時に、ポップさはありつつも、かなり玄人的な作品になったようにも感じる。

”組曲”的な魅力のある大作紹介

最後に、組曲の形式ではないものの、組曲に近い魅力を持つ大作を紹介したいと思う。

これらの楽曲は組曲の収録されないアルバムでの大作(10分前後ある曲を選曲)となっているとともに、その時々の組曲のアプローチが反映されたものになっている点が興味深い。

そのため各曲の前後にある組曲との影響・関連なども述べておきたい。

奇子

  • 作詞・作曲:瞬火
  • 収録アルバム:『百鬼繚乱』(2000年)

陰陽座が発表した中では最初の大作とも言えるのが「奇子」である。2000年の2ndアルバム『百鬼繚乱』に収録されている。

手塚治虫氏の漫画『奇子』がモチーフとなっており、土蔵の中で成長し外の世界を見ることがなかった奇子とその家族を巡る物語である。

歌詞の世界観は『奇子』をモチーフにしつつも、まだストーリー性を持たせるというニュアンスは弱めであり、奇子と言う存在、そして人間の恐ろしさを表現するような楽曲となっている。

途中にはセリフが登場し、後の「義経」に繋がっていくような雰囲気もある。楽曲自体はプログレ風味のあるハードロックであり、やはり初期の陰陽座は人間椅子の影響も色濃く感じられる。

  • 作詞・作曲:瞬火
  • 収録アルバム:『鳳翼麟瞳』(2003年)

組曲「黒塚」の後に発表された大作としては、2003年の4thアルバム『鳳翼麟瞳』収録の「鵺」が挙げられる。1曲で10分を超えたのは本作が初めてである。

正体不明の妖怪「鵺」を題材にしたものであり、楽曲自体もどこか掴みどころのなさが褒め言葉になるものだ。雰囲気的にはゴシックと言うか、アンビエントのような独特の雰囲気がある。

変幻自在の妖怪と言う感じからか、ゴシック調の前半からアップテンポになり、歌謡曲的メロディや和音階なども登場し、展開がかなり多い。

組曲「義経」の「夢魔炎上」を予感させるような展開の多さでもある。

道成寺蛇ノ獄

  • 作詞・作曲:瞬火
  • 収録アルバム:『魑魅魍魎』(2008年)

組曲「義経」の後に生まれた大作が「道成寺蛇ノ獄」であり、非常に人気の高い楽曲であるのも頷ける、かなり完成度の高い名曲である。

物語は能や歌舞伎などの安珍・清姫伝説を土台に、瞬火氏が解釈したものである。元ネタでは清姫に言い寄られた安珍は嘘をついて逃れようとしたという話である。

ただこの曲では安珍は最初から騙すつもりであったと言う設定になっているようだ。一途な女性と騙す男性と言う構図で掛け合いのように楽曲が展開し、ストーリー性が生まれている。

組曲「義経」から一気に大作の表現力が増しているのが感じられる。楽曲の展開や男女ボーカルの切り替えを巧みに使い、ドラマチックな物語を10分以上の楽曲の中に見事に詰め込んだ。

個人的にも陰陽座の大作の中で1番好きな曲である。

※元ネタと歌詞の比較についてはこちらの記事を参考にした。

  • 作詞・作曲:瞬火
  • 収録アルバム:『雷神創世』(2014年)

組曲「鬼子母神」という超大作の後、2枚同時リリースとなったうちの『雷神創世』に収録の大作である。「鬼子母神」同様に、全弦1音下げチューニングで演奏されている。

江戸時代に流行した怪談の「累ヶ淵」がモチーフになっている。顔が醜いという理由だけで親に殺された少女の物語であるが、原作から瞬火氏が解釈して脚色した内容となっている。

少女が成仏させられると言う話ではなく、親による身勝手な子殺しと言うテーマに焦点を当て、かなり感情が爆発している印象がある。

物語に沿った楽曲構成はさすがながら、それよりも累の無念さが伝わってくるようなヘヴィさ、あるいは逆に累の一途な思いを表したポップで美しいメロディが際立つ。

ストーリー展開よりも情念が伝わってくる新たな感触である。

瞬火氏による楽曲解説

陰陽座 瞬火のまったり徒然草
陰陽座 瞬火のまったり徒然草

白峯

  • 作詞・作曲:瞬火
  • 収録アルバム:『龍凰童子』(2023年)

「累」以降は長尺の楽曲があまりなかったのだが、ついに2023年の『龍凰童子』に、かなり聴き応えのある「白峯」が収録されている。

崇徳院について取り上げたかったという瞬火氏は、『雨月物語』の一篇「白峯」を題材にすることを選択した。ここでは西行が怨霊となった崇徳院と歌を詠み合い、最後に崇徳院が成仏することとなる。

この曲も「道成寺蛇ノ獄」と同様の掛け合い形式であり、西行を黒猫氏が、崇徳院を瞬火氏が演じつつ歌っていく。

崇徳院を偲んでいる静かな前半から、崇徳院が応じていくヘヴィな中間部、そして崇徳院が改心して成仏していく美しい展開のラストと、見事に物語と楽曲がリンクしている。

7弦ギターのヘヴィな音色も手伝い、「道成寺蛇ノ獄」の展開をさらに進化させた、陰陽座の大作の到達点と言っても良いだろう。

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まとめ – ”合体ロボ”的な組曲の美学

今回の記事では、陰陽座がこれまで発表した組曲シリーズについて、実際の楽曲を紹介しながらその魅力について語った。最後に組曲シリーズの魅力をまとめておきたい。

組曲形式を用いる理由としては、コンセプトやストーリーを表現するため、異なるタイプの楽曲を組み合わせることで場面を分けてストーリーを表現できると言うことがある。

その結果、どのような音楽ジャンルや曲調を、どのような順番で組み合わせるかと言った、アルバムやプレイリストなどの曲順マニア的な美学を感じるところがある。

そして瞬火氏がインタビューで語っている通り、「“音楽として楽しむ”と“完全にストーリーを表現している”」という2つのバランスが常に重要になる。

例えるならば、合体ロボットの魅力に近いものがある。合体ロボットは、1体ずつのロボットの魅力もさることながら、合体することでより強く、カッコよくなると言う魅力がある。

しかし合体するとカッコよくても1体ずつの魅力がない、とか、1体ずつの魅力はあるが無理やり合体させた感がある、など、組曲を構成するのと似たような問題が出てくるように思われる。

こうした問題は合体ロボットをいかに作るか、によって生じるのだろう。

つまり、個々のロボットを組み立てることを優先し、合体の方法を考えるボトムアップ型と、合体することを前提に個々のロボットを作るトップダウン型がある。

話を組曲に戻せば、ボトムアップ型は個々の楽曲の素朴な持ち味が活かされる一方で、繋ぎ合わせるためには、どうしても繋ぎ合わせるためのパートを追加する必要が出てくる。

一方でトップダウン型はそうした繋ぎ目からあらかじめ設計するので違和感がなくなるが、どうしても”組曲のための曲”という感じになると、独立させると魅力が落ちてしまうと言う問題が起きやすい。

陰陽座の組曲では、「義経」まではボトムアップ型に近い作り方に思える。個々の楽曲の素材を活かした結果、物語性の部分ではセリフを入れる方法論を用いることとなった。

しかし組曲「九尾」からはセリフが登場しなくなっていく。瞬火氏のこだわりとして、やはりセリフなどでストーリーを繋げるのではなく、楽曲のみでストーリーを表現する方向にしたかったのだろう。

その結果、組曲「九尾」はかなりトップダウン型に寄った感があり、曲の中のメロディやコーラス、展開によってストーリーを表現しようとした。

ただ3曲の中でストーリーを表現し切ることにもやはり限界があったのではなかろうか。そしてついに組曲「鬼子母神」ではアルバム1枚、12曲を使って組曲を作り上げた。

「鬼子母神」に至って、ついにストーリーの表現と音楽として楽しめる部分の両立が完成したように思える。

それは「義経」までのボトムアップ型のアプローチと、「九尾」で見せたトップダウン型のストーリー表現の両業を統合することに成功したと言っても良い。

その意味において、組曲の完成度がどんどん上がっている。単に組曲が長くなっていると言う意味ではなく、組曲と言う形での表現方法が洗練されていると言うことである。

「鬼子母神」で頂点を迎えた感のある組曲シリーズ、それ以降は作られていない。もし次に組曲シリーズが生まれるとすれば、これまでとまた違ったアプローチになるのではなかろうか。

ぜひ新たな表現方法の組曲シリーズの今後にも期待したいところである。

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