大変物騒なタイトルである。しかし筆者はロックバンド、エレファントカシマシには常に”暴力”を感じている。
暴力にポジティブなイメージはないだろうが、エレカシの場合は不思議な魅力のある”暴力”なのである。
果たしてそれが健康的なのか分からないが、エレカシファンには少なからずどこか共感できる感覚なのではなかろうか。
エレカシの楽曲や佇まい、バンド内の関係性に至るまで、”暴力”というワードは切っても切り離せないものである。
今回は「エレファントカシマシと暴力」をテーマに、暴力がもたらす強さと悲しさ、そしてスクラップアンドビルドなエレカシの歴史の魅力について語ってみることにした。
エレカシと暴力について – 強さと悲しさのもたらす魅力とは?
冒頭にも書いた通り、エレファントカシマシと暴力は切っても切り離せないような感覚がある。ロックバンド(とりわけパンクな雰囲気のあるバンド)は、どこかしら暴力的な要素はあるだろう。
そして実際に誰かに向ける暴力ではなく、社会や生きていくことに対する違和感のようなものに対する怒りや悲しみが、暴力的な楽曲を生み出す。
楽曲の世界観や、暴力的なサウンドや曲調を音楽の中でやることには、何ら誰かに迷惑をかけるものではない。
エレカシの楽曲の多くには暴力的なものを筆者は感じる。さらにエレカシを知っていくと、エレカシのメンバー間においても、独特な関係性が見えてくる。
メンバー間の関係性、とりわけボーカル宮本浩次氏と他のメンバー間には、時に暴力的なものを感じる。ここでは楽曲、メンバー間の関係の2点から書いてみることにした。
エレカシの楽曲に感じる”暴力”
まずエレファントカシマシの楽曲には、強いパワーを感じるのであり、それが筆者には暴力的と感じることが多々ある。
それはとても魅力的なものでもあり、心のない「頑張ろう」よりも、生々しく暴力的な音や言葉の方が、むしろ元気づけられることがある。
エレカシの音楽、とりわけ初期の音楽はそう言った魅力がある。何と言っても1stアルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI』はそうしたストレートな怒りに溢れた名盤である。
当時の音楽シーンにおいても、エレカシのデビューは鮮烈なものだったようだ。
とは言え、怒りや暴力とは不安定なものでもあり、1stのような怒りをポップミュージックとして上手く鳴らせないこともエレカシらしさの1つであった。
エピック時代と言われる、エピックソニーに在籍した時代には、徐々に生々しい怒りと、荒々しく暴力的なサウンドと宮本氏のボーカルになっていく。
圧倒的な怒りを感じさせる「男は行く」(1990年『生活』収録)では歌詞の内容もかなり暴力的な要素を含んでいる。
聴く者へのダイレクトな怒りが暴発する「奴隷天国」(1993年『奴隷天国』収録)では、テレビ番組に出演した際に観客にも怒りを向けるようなパフォーマンスは恐怖である。
1996年から在籍したポニーキャニオンの時代には、ポップな作風に転向していったものの、時にその暴力性は顔を見せることもあった。
「孤独な旅人」(1996年『ココロに花を』収録)のMVでの花壇のセットを壊すシーンは、そのシュールさもあって衝撃的なものである。
しかしぶっ飛んだ怒りと暴力は、反対に強い悲しみをもたらすものでもある。エレカシの楽曲は、暴力的なパワーの対極に、深い悲しみを感じさせるものがある。
たとえば2000年に『good morning』という攻撃的なアルバムをリリースした後には、何とも悲し気な『ライフ』(2002年)と言うアルバムが反動でやって来ている。
「普通の日々」などは、激しいパワーの裏側と言う感じがあり、悲しみと言うか虚脱感のようなものに襲われる感覚である。
また『扉』(2004年)なども、中年に差し掛かったエレカシの何とも言えない悲哀と、一方でまだ底から湧き上がるパワーの両極を行き交うような作品になっている。
エレカシはこうした怒りと悲しみの二極を行ったり来たりする。それこそが魅力であるのだが、その地点に立った人は既に結構なエレカシマニアだと思っている。
エレカシがヒットするのは、実はその二極を離れることができた瞬間である。怒りとも悲しみとも違う、希望と言うのか光明を見た時、いわゆる”ドーンと”行けている時である。
その始まりは『東京の空』(1994年)であり、その後のポニーキャニオン期の隆盛と「今宵の月のように」の大ヒットへと向かう。
東芝EMI期には怒りと悲しみの間を行ったり来たりするが、「俺たちの明日」、そして『STARTING OVER』にて再びその二極の世界から脱することに成功し、再ブレイクとなったのである。
エレカシ、そして宮本氏が本当に調子が良い時は、怒りと悲しみの二曲を超越し、もう一段高い地点に立てた時である。
一般の人がまず聴くエレカシはこの調子が良い時であり、ただそれ以外に怒りと悲しみ、暴力性の中にいるエレカシが多くを占めており、これがエレカシの評価を大変難しくしているのである。
エレカシ内における”暴力”
エレカシ、というより宮本浩次氏の暴力性は楽曲の中のみならず、メンバー間の関係にも表れている節がある。
多くの人が目にしたことがあるのは、エレカシのドキュメンタリー映画『扉の向こう』(2004年)におけるレコーディング風景におけるメンバー間のやり取りである。
レコーディングにおけるメンバーの演奏に納得がいかず、厳しい言葉を投げかけたり、怒ったりする様子が見られる。
あるいは、2002年のライブ映像で、「ファイティングマン」の時にドラムの冨永氏とタイミングが合わずに、宮本氏がマイクを投げつける場面も有名である。
こうした宮本氏の暴力的なシーンのみが切り取られ、エレカシは仲が悪いとか暴力沙汰がある危ないバンドだ、と外側から書かれることもあるようだ。
ファンの側からは「一部だけを切り取らないで」とか「実は仲が良いバンド」と擁護するコメントもよく見られるが、個人的にはどちら側にもいくらか違和感がある。
客観的に見ればパワハラとか、DV的な関係性のバンドである、と言われればそうなのではないか、と筆者は見ている。
しかしDVなどは、不健全ながら暴力が介在する形で、それはそれで関係が成立してしまうものでもある。後は当人が苦しいと感じるかどうかが、問題になるのだろう。
エレカシのメンバー間の関係は、仲が良い・悪いとか、暴力的であるとか、そう簡単に理解しきれない部分があるように筆者には見える。
もともとは中学・高校時代の同級生で結成されたバンドであり、不動の4人で35年以上少なくとも脱退などはない。
彼らの中に、中学・高校時代からの友だちと言う関係性が消えた訳でもなさそうである。しかしある時点から、友だち同士のような会話をバンドの中ではしなくなったようだ。
ある時期から宮本氏が一方的に話をし、メンバー間がそれを聴いているという、メディアなどでよく見かける光景である。
本人らのインタビューなどを総合するに、それまで4人横並びのバンドだったのが、どこかでやはり宮本浩次という圧倒的な才能があって成立するバンドであるという自覚が芽生えたようだ。
それはファンの間でも同様だろうと思う。エレカシは4人でなければ、という話と同時に、宮本氏こそエレカシの世界を創造する人物であり、破壊する人物でもある。
宮本氏は自身を「総合司会」と呼ぶところにも表れており、常に場を制する人物であると言うことだ。
こうしたエレカシの構造になった以上、メンバーもファンも、宮本氏の創造と破壊の道のりについて行く、というのがエレカシと言うバンドのあり方なのだ。
まとめ – エレカシにおけるスクラップアンドビルド
今回はエレファントカシマシと暴力をテーマに、楽曲の世界観や雰囲気の中にも、そしてそれがメンバー間にも広がっていることを指摘した。
結局のところ、エレファントカシマシと言うバンドにおいて、宮本浩次と言う存在が、音楽やエレカシと言うバンドの中における”神”のような存在だからこそ起きるものと言える。
”神”と書くと宗教のようになってしまうから、例えるならば宮本氏はゴジラのような存在に筆者には思える。
ゴジラとは破壊の神であり、壊してまた人々は街を再建して、ということを繰り返す。映画を観た人は、ゴジラの強力な破壊と暴力にどこか惹かれてしまうものである。
そして人間の暴力とは異なり、どこか絶対的な力を感じるものであるから、魅力的に思える。
宮本氏の場合は、自ら音楽の世界観を構築し、自らでそれをまた破壊して作り直すことを繰り返している。そしてその完成形は誰にもわからず、むしろ未完のままであることがエレカシらしさでもある。
この未完の物語こそがエレカシであり、その過程におけるスクラップアンドビルドが魅力である。そのスクラップ=破壊と暴力が、物語の中で重要な要素となるのである。
エレカシの暴力性とは、自らの世界を壊していく意味合いが強いのだが、それが時にメンバーにも広がっているところに不健全さがあるものの、そこに人間味を感じるファンも多いことだろう。
”破天荒”とまとめてしまうのではなく、エレカシの暴力性にはエレカシと言う存在、その歩みも含めて重要な要素であると感じている。
※やっぱりエレファントカシマシに惹かれてしまう理由とは? – ずっと”未完成”の最強バンドの魅力
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